

千曲川の瀬替えで分断された西寺尾(長野市)
千曲川の瀬替え
殿様が避難するほどの「戌の満水(寛保2年(西暦1742年))」ののち松代藩は、松代城すぐ西を流れる千曲川を、現在の西700mへ付替えた(瀬直し)。右岸の松代城下の人々は喜んだが、下流左岸にあった西寺尾、小島田の村々は、集落や農地が分断されることとなった。当時の西寺尾の集落は、犀川扇状地の端部にあたる千曲川の左岸と、千曲川を挟んだ東側の自然堤防上にあった。

〈旧河道と災害リスク〉
瀬替えのほかにも堤防が旧河道を横切るところはあちこちに見られる。自然災害のリスクを知っておくことは、緊急時の避難など、命を守るために重要である。
川の中に取り残された小学校
第一期改修工事の計画で千曲川の川幅を広げるにあたり、両岸の家屋39戸と東側の旧西寺尾小学校が堤防敷予定地や川の中から移転することになった。ところが新堤防の建設が急でもあったため、小学校の移転先が決まらないうちに新堤防が先に完成、川の中に取り残される事態となった。その後、西寺尾村長らが奔走し昭和6年12月、左岸の役場近くに移転することができた。


