阿賀野川のむかし話

従位の宮(じゅいのみや)旧中蒲原郡村松町

従位の宮

 今から800年ほど昔のことです。
 平家のわがままをおこった源氏の将軍、源頼政は平家をほろぼそうとして旗あげをしました。
 頼政は後白河法皇の2番目の皇子、以仁王(高倉宮)を大将におしいただいて、平家の本陣である京都・六破羅を攻めようとしましたが、はかりごとがもれて失敗し頼政は以仁王を奈良の方へ落ちのびさせ、自分は京都の宇治・平等院に陣地をかまえ、おしよせた平家の大軍とたたかって死にました。また以仁王も奈良へいく途中、光明山の鳥居の前で戦死しました。  これは有名な歴史のうえのお話です。
 ここでのお話、いいつたえは以仁王は戦死ではなく、越後の国(今の新潟県)へ落ちのびたことになっています。
 さて、いくさに破れた以仁王は、源頼政の子の仲綱、渡辺競、猪又隼太など、そば近くつかえる人々をつれて、越後蒲原の五十嵐小文次を頼って越後へ落ちのびました。
 この途中、早出川のほとりで、いっしょに来たおきさきが男の子を生みました。そして早出川の水を汲んでお湯をわかし、うぶ湯を使ったということでした。
 このことを記念して、のちの世の人が「従位の宮」と刻んだ石碑を建てました。この石碑は長い間、行くえ不明になっていましたが、今は元の中蒲原郡菅名村の日枝神社の境内にあるということです。