信濃川水系での治水事業の歴史についてご紹介します。
 

時代 年(度) 名称 一覧表の場所 概要
江戸 1597

直江[なおえ]工事
1582(天正10)年〜1597(慶長2)年

新潟県燕市〜白根市(信濃川下流域中ノ口川) 上杉謙信の家臣直江山城守により行われた工事で、燕島を防護して主流を東へ寄せることを目的としたもので、白根市新飯田上流の中ノ口川はこのときの掘削によるものといわれる。※1
1611 裾花川[すそばながわ]の瀬替え
1611(慶長11)年頃
長野県長野市(千曲川支川裾花川) 以前の据花川は、新田町・七瀬・長池あたりを乱流して屋島で千曲川に流れこんでいた。江戸時代初めに松代藩主松平忠輝の城代花井左ヱ門吉成は、新川を切り開きまっすぐ南下させ、丹波島橋で犀川に切り落とした。※1
1624 福島正則(大夫)の千両堤
1619(元和5)年〜1624(寛永元)年
長野県小布施町(千曲川支川松川) 1619(元和5)年に信州高井郡2万石、越後魚沼郡2万5千石を与えられた福島正則が、当時複数あった松川の支流を一本化させ、小布施集落の西側に移し、両岸に堤防(乗越堤、霞堤)を施し、水害を防いだ。※2
1648 西川の柳土手
慶安年間(1648〜1651)
新潟県弥彦村(信濃川下流域西川) 与板藩が慶安年間に西川(信濃川下流)に築造した大堤防で、境江村(現弥彦村)、村山村(同)、大戸村(同)の3村に渡った。一村を超えたものであったため、上下流間で毎年、紛争と流血の惨事が繰り返されていた。※1
1660 万冶[まんぢ(じ)]工事
明暦(1655)〜万冶(1660)
新潟県燕市〜三条市(信濃川下流域中ノ口川) 1655(明暦元)年から1660(万治3)年にかけて、村上藩主松平直矩により行われた。この工事は、信濃川主流を三条方面へ流下させるため、道金分岐点において杭出しをして中ノ口川との分流を維持するようにした。※1
1680
(水害)
信濃川:「白髭(髪)の水」と呼ばれる大洪水
1697 新大川の開削
1697(元禄10)年
長岡市蔵王町(信濃川水系) 蔵王権現堂(現長岡市蔵王町)付近の大川が川欠けのため、普請大奉行稲垣弥助らにより新大川が開削された。使用した人足は約3万人で当時として前代未聞の大工事だった。※1
1730 松ヶ崎[まつがさき]掘削
1730(享保15)年
新潟市(信濃川下流・阿賀野川) 新発田藩は、紫雲寺潟干拓の結果、加治川および阿賀野川の水害が増加したことから、洪水防御と水田排水を目的として松ケ崎の掘削を行なった。※1
1735 千原[ちはら]の堀割
享保年間(1716〜1735)
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた掘割事業の一つ。山秋橋付近の千曲川は湾流しており、それを約50mに渡り直線化した。また旧河道は開墾され水田に利用された。※1
1738 車田(横手)第一次堀割
1724(享保9)年〜1738(享保20)年
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた掘割事業の一つ。土尻川の川筋は、額塚の南側の山裾を東に流れ、荒神社の東側を北方へ向かって流れて湾流していた。これを直線化し旧河道を開墾した。※1

1742
戌の満水

信濃川:信濃川下流各地で破堤し、南・中蒲原の地形変わる。   
千曲川で史上最大の大洪水。全滅村落数知れず、死者は約2,800人にも及んだ。
1744 松代[まつしろ]領内の本瀬替え
延享年間(1744〜1747)
長野市(千曲川) 松代藩主真田信安の執政原八郎五郎により、千曲川の流れを現在の位置に移動させた。河道の大移転を行う理由は、戌の満水で城郭が水びたしになり、再びその危険にさらされまいとしたためである。※1
1748 左近[さこん]堤(左近の大土手)
1748(寛延元)年
新潟県長岡市(信濃川) 長岡の町中に氾濫する洪水は、主として西南方に当たる左近・草生津(現長岡市草生津町)方面の信濃川堤防の決壊によるものであったため、長岡藩では洪水流が最も激しく衝突する左岸に堤防を築造することを決定し、1748(寛延元)年に竣工した。※1
1757
(水害)
信濃川:宝暦の横田切れ。与板・栄村大沼・三条市今井等、破堤多発   
1776 車田第二次堀割
1768(明和5)年〜1776(安永5)年
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた掘割事業の一つ。車田(横手)第一次堀割後、洪水などにより、旧河道に流れが戻りつつあり、再度掘割工事を行った。※1
1789
(水害)
信濃川:長岡城内浸水8尺以上
1819 黒埼〜鮫面[さめづら]間の堀割
1819(文政2)年
新潟市(信濃川下流) かつて信濃川は天野の蛇行部から湾流していたが、1819(文政2)年に黒埼、鮫面間の掘削を行った結果、現河道に落着した※1
1820 関屋堀割騒動
1820(文政3)年
新潟市(信濃川下流) 1828(文政11)年、青島・平島の八ヵ村は砂丘地を掘り割って悪水を海へ流そうと計画、請願したが着工されなかった。その後大洪水に見舞われるなどしたため、付近の住民は自ら掘削工事を強行したが、越後府は工事に従事した農民たちを説得し、工事を中止させた。※1
1820 三潟悪水抜き (金蔵坂[きんぞうざか]堀割工事)
1818(文化15・文政元)年〜1820(文政3)年
新潟市(信濃川下流域西川等) 潟の水を五十嵐浜へ放流する計画で、伊藤五郎右衛門を中心に計画を立て、西川以西の内野村地内より五十嵐浜村地内金蔵坂に至間を掘削して河道を新造するなどを行った。1833(天保4)年、請願以来98年の歳月をかけてようやく竣工した。※1
1828 不崩[かけず]の土手
1828(文政11)年頃
長野県長野市(千曲川)
松代の海津城は千曲川に臨む要害の地にあったために千曲川の氾濫のたびに、洪水が城内に流れ込んだ。藩主真田幸貫は花の丸の西から本丸の北通り蔵屋敷の裏まで堤防を築いた。結果、1828(文政11)年6月洪水では城内の浸水を免れ、「不崩の土手」といわれた。※2
1829 文政12年の堤防復旧御普請工事
1829(文政12)年
長野県飯山市(千曲川) 1829(文政12)年に小沼村(現飯山市)の堤防破損箇所412間(749m)に渡り復旧工事が行われた。※1
1829 八幡越[はちまんこし]の堀割
1829(文政12)年
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた堀割事業の一つ。土尻川は、西山農協小根山事業所付近で湾流していた。1827(文政10)年小根山町組、伝次郎と弥曽吉、勘左衛門、兼蔵は約190mに渡りショートカットを行った※1
1830 舟平[ふなだいら]の堀割
1800(寛政12)年〜1830(文政13)年
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた掘割事業の一つ。馬杭の掘割と同時に、1800(寛政12)年着手されたが、失敗放棄された。その後幾度かの失敗を経ながら、1830(文政13)年にようやく完成した。※1
1836
(水害)
信濃川:白根郷全域水に浸かる。米・大豆・雑穀の他領への移出禁止  
1837 日影[ひかげ]の堀割
1837(天保8)年
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた掘割事業の一つ。1837(天保8)年に宮尾太兵衛と稲葉利左衛門は、耕地を掘り割ってショートカットし、旧河川敷に開田した。※1
1839 舞袋[ぶたい]の堀割
1839(天保10)年
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた掘割事業の一つ。1839(天保10)年中に宮尾太兵衛と稲葉利左衛門は、舞袋橋下流の湾流をショートカットし、旧河川敷を開墾した。※1
1839 初引[はつびき]の堀割
1839(天保10)年
長野県小川村(千曲川支川土尻川) 松代藩の奨励、指揮のもとに行われた掘割事業の一つ。1839(天保10)年中に宮尾太兵衛と稲葉利左衛門は、北に湾流していた川の南方を堀割って、約15mに渡りショートカットし、旧河川敷を開墾した※1
1841 天保12年の堤防普請工事
1841(天保12)年
長野県飯山市(千曲川) 小沼、戸隠(現飯山市)両村の堤防や石橋、悪水堀等土木工事が行われた※1
1845 常山[じょうざん]
1841(天保12)年〜1845(弘化2)年
長野県坂城町(千曲川) 洪水に苦しむ住民を見て、中之条代官石井勝之進は積極的に築堤工事計画を進め、1845(弘化2)年に堤を完成させた。※1
1847
(水害)
千曲川:善光寺地震による土砂崩れが犀川をせき止め、崩壊し下流に大きな被害をもたらした。  
1866 天野[あまの]の瀬替え
1614(慶長19)年〜1866(万延元)年
新潟市(信濃川下流) 信濃川西岸にある天野新田は、毎年、信濃川の氾濫に悩まされていた。天野の名主加藤順蔵はこの困苦を救うため、堤防を築いて水流を閉じ、新水路を開いて耕地の湛水を鳥屋野潟へ排水する計画を立て、1860(万延元)年、計画から24年後に工事を完了した。※1
※青い帯の部分は詳細ページへリンクします。
※グレーの帯は水害の歴史です。
出典:※1 信濃川百年史 ※2 千曲川今昔
[ページトップに戻る]