信濃川水系での治水事業の歴史についてご紹介します。
 
年代:1614(慶長19)年〜1866(万延元)年
場所:新潟市天野新田
信濃川下流

 江戸時代の信濃川は新潟市天野付近で大きく湾曲して流れており、毎年のように氾濫していた。これに対して、天野の人々は一丸となって水害に立ち向かい、信濃川の付替えという大事業が行われた。
この大事業は1614(慶長19)年に計画され、後に新発田藩の治水政策の一環として、村民の協力により進められた。1679(延宝7)年頃には新しい川に付替えられたが、排水が十分でなく、ひとたび増水すると天野は孤島と化していた。
 天野の名主加藤順蔵は、この困苦を救うため、堤防を築いて水流を閉じ、新水路を開いて耕地の湛水を鳥屋野潟へ排水する計画を立てたが、沿岸17カ村が反対した。しかし、順蔵はあきらめず説得を続け、ようやく合意を結んで1860(万延元)年、計画から24年後に工事を完了した。


天野新田古川跡上下締切り関係

現在の航空写真 (信濃川下流 治水歴史地図より)