国道18号
妙高大橋の軌跡

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1.歴史を刻む北国街道

〜谷を越えて結ばれた道〜

 江戸時代初期、徳川幕府は東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道を中心に、全国の交通網を整備しました。五街道に次ぐ街道は「脇街道」と呼ばれ、その一つが北国街道です。

 1601年(慶長6年)、佐渡相川の金銀山が発見されると、徳川家康は佐渡を直轄地とし、奉行所を設置して本格的な開発に乗り出しました。佐渡産の金銀は幕府の財政を支える重要な資源となり、北国街道はその輸送や参勤交代の要路として整備されました。

 この街道は、中山道の追分宿(現・長野県北佐久郡軽井沢町)から分岐し、長野県を経て関川宿(現・新潟県妙高市)、高田城下(現・新潟県上越市)を通り、出雲崎宿(現・新潟県三島郡出雲崎町)に至ります。さらには、佐渡の小木を経て、相川へと続きました。

難所 大田切川の谷越え

 北国街道の難所の一つとして恐れられていたのが、二俣宿(現・妙高市二俣)と関山宿(現・妙高市関山)の境にある「大田切川の谷越え」でした。

 妙高山麓には、大田切・郷田切・白田切の3つの田切地形があり、それぞれ切り立った崖に囲まれています。なかでも、北地獄谷から関川の合流点まで続く大田切の峡谷は最も深く、街道の路面から谷底まで約60メートルの高低差があったとされています。

 谷を越える九十九折れの道には14の急カーブと急勾配が連続し、参勤交代の殿様でさえ駕籠を降りて歩いて越えたと伝えられています。

『東都道中分間絵図』にある二俣~関山

1810年(文化7年)
提供:『上越市公文書センター』

近代の北国街道

 1920年(大正9年)、北国街道の長野-直江津間は国道11号に指定されました。その後、1923年(大正12年)の関東大震災を契機に自動車需要が急増し、全国的に道路整備が本格化していきました。

 こうした流れの中で、1930年(昭和5年)頃には、当時の内務省直轄で「大田切川の谷越え」の道路改修工事が始まりました。工事は、大曲がりを4箇所設け、大田切川をコンクリートの橋で跨ぐ形で整備が進められました。

 長年にわたり旅人を悩ませてきたこの谷越えは、1936年(昭和11年)に工事が完了し、妙高大橋の桁下を通る現在の旧道の姿になりました。

国道11号道路改修工事

1932年(昭和7年)
提供:『坂口新田郷土史編さんの会』

 1945年(昭和20年)の終戦を機に、日本は生活水準の向上と社会発展を目指して産業の転換を進め、自動車産業が急成長しました。国道11号は1952年(昭和27年)に一級国道18号となり、1965年(昭和40年)には一般国道18号に改称され、交通量も日増しに増加しました。

 一方で、大田切川の谷間に位置する道路は、地形的な制約による幅員の狭さや急カーブ、急勾配のため、事故や渋滞が頻発していました。特に、冬季には雪崩やスリップ事故による通行止めが発生し、「魔のカーブ」として運転者を悩ませる存在となっていました。

1959~1960年(昭和34~35年)頃の
一般国道18号