砂防・地すべり対策事業
赤崎地すべり:概要
阿賀野川に面して位置する赤崎地すべり
赤崎地すべりは、新潟県東蒲原郡阿賀町(旧鹿瀬町)、阿賀野川右岸側に立つ赤崎山の南東向きの斜面に位置しており、本体ブロックと上流側ブロックに分かれています。
本体ブロックの地すべり範囲は、斜面長約1km、最大幅約500m。面積は約30ha(東京ドームの面積の約6倍)、最も深い地すべり面の深さは50m、移動土砂量は約962万m3(東京ドーム約8杯分)と推定されています。
集水井や排水トンネル等の抑制工を中心とした対策により、地すべりの移動は沈静化しました。
早期に国の直轄事業を終了し、新潟県への移管を予定しています。
上流ブロックの地すべり範囲は、斜面長約210m、最大幅約100m、最も深い地すべり面の深さは約20m、移動土砂量は約23万m3と推定されています。
本体ブロックと同様に、地すべり斜面は地下水が集まりやすい地形で、地すべり末端部が阿賀野川に面しています。
平成7年豪雨による影響を受けて、平成8年から地下水排除工及び抑止工を施工したことで移動は沈静化しました。
本体ブロック、上流側ブロック共に、地すべり斜面は地下水が集まりやすい地形で、地すべり末端部が阿賀野川に面しているため、川の流れによる侵食が地すべりを発生しやすくしています。
赤崎地すべり:メカニズム
上部・下部ブロックと上流側ブロック
赤崎地すべりの本体ブロックは、上部ブロックと下部ブロックに分割され、地すべり末端部は阿賀野川に面しているため、浸食されて崖を形成しています。
上部ブロックは、流紋岩(※)を主体とするれき質の崩積土(土砂が崩れてできた土の塊)からなり、その下面にすべり面が形成されています。
下部ブロックは、主に崩積土の底面に形成される「浅層すべり」と砂岩と凝灰岩からなる地層に形成される「深層すべり」があります。
本体ブロックの移動は、阿賀野川に向かって下部ブロックが動き出すことにより、上部ブロックが動く形態と考えられます。
上流側ブロックは、凝灰岩の上層に流紋岩を主体とする崩積土と砂岩が交互に重なり、すべりやすい状態となっています。
用語解説
- 【流紋岩(りゅうもんがん)】とは:
石英・長石といった鉱物を主成分とする岩石で、色は白っぽい。 かつて流動した形跡を留める流水状の斑紋がある。 分解した土は九谷焼など陶磁器の原料になる。
地すべりブロックと移動方向
赤崎地すべり:過去の被害
鉄道や道路に被害をもたらした昭和初期
赤崎地すべりの活動が始まったのは、江戸時代の宝暦元年)1751)とされています。近年の動きとしては昭和10年)1935)頃から活発化し、地すべり地内を通っているJR磐越西線や県道などが被災しました。鉄道では線路の変形が確認されたほか、県道には亀裂が入るほどの被害となっています。
本体ブロックの上部ブロックは過去、昭和58年)1983)から昭和62年)1987)にかけて、その最上部で阿賀野川へ向かって累計移動量は水平方向に約40cm、垂直方向に約10cm移動しました。
下部ブロックは、昭和56年)1981)から昭和62年)1987)にかけて、阿賀野川方向へ累計移動量が水平方向に約200cm、垂直方向に約40cmでした。
上流側ブロックも阿賀野川に向かって移動すると考えられており、平成7年(1995)の豪雨の影響によって1ケ月に2cm移動しました。
現在は各ブロックとも移動は沈静化しています。
災害履歴(移動量)
- 和暦(西暦)
- 記事
- 宝暦元年(1751年)
- 地すべりの記録
- 明治20年(1887年)
- 地すべり活動活発化、樹木に多大な被害
- 大正元年(1912年)
- 国鉄磐越西線、地すべり地を横断して開通
- 昭和元年(1926年)
- 国鉄の線路移動量約40cm
- 昭和9年(1934年)
- 国鉄の線路移動量約155cm
- 昭和17年(1942年)
- 国鉄の線路移動量約270cmで最大
- 昭和39年(1964年)
- 新潟地震、線路移動量約10cm
- 昭和53年(1978年)
- 国鉄の線路移動量約40cmと地すべり活動活発化
- 昭和56年(1981年)
- 直轄地すべり対策事業開始
- 平成7年(1995年)
- 本体ブロック上流部にて一部崩落
(1)~(4):写真撮影位置
(1)地すべりによる線路の変形
(2)昭和57年
地すべりにより生じた県道上の亀裂
(3)昭和56年4月
地すべり地内
樹木の幹割れの推移
(3)昭和56年10月
(3)昭和58年4月
(4)平成4年4月 地すべりにより生じた観測帯のずれ
赤崎地すべり:対策
赤崎地すべりの対策
赤崎地すべりの国の直轄対策事業は、昭和56年(1981)に始まりました。
本体ブロックの地すべりは、下部ブロックが阿賀野川に向かう移動によって、上部ブロックが動き出す形態です。
下部ブロックの移動は、上部ブロックと下部ブロック上層部から集まった地下水が原因です。
対策工は、下部ブロック深層部の地下水の先行排除のため、下部ブロックおよび上部ブロックにおける排水トンネル工を実施し、その後、すべり面が比較的浅い上部ブロックの崩積土における地下水の排除、下部ブロックでの集水井工および横ボーリング工を順次施工しました。
上流側ブロックは、平成7年豪雨に影響され、斜面上部からの地下水が集まることが原因となって移動し、豪雨後の移動が継続していたため、即効性があって確実性の高い対策工として、抑止杭工、集水井工、アンカー付土留工を施工しました。
赤崎地すべり:対策の効果
対策工によって沈静化の傾向へ
赤崎地すべりへの対策工の効果は、次のようになっています。まず、地下水位は、上部ブロックにおいて約9mの低下が見られ、下部ブロックにおいては約7mの地下水低下が観測されています。一方、地すべりの移動量は排水トンネル工・集水井工・集排水ボーリング工などの施工によって沈静化の傾向を示しています。各ブロックの地すべり活動は昭和60年頃より減少し、平成14年度から16年度までの3年間の継続観測によると、1年に0~2mmです。
もし、地すべり対策事業を行わなかったとしたら、赤崎地すべりはどのような被害をもたらすのかを想定してみます。
豪雨などによって地すべりが発生した場合、地すべりによって移動した地盤(土塊や岩盤)が阿賀野川の一部をふさいでしまい、阿賀野川の水がたまることで周辺の浸水被害をおこしています。赤崎地すべり上流の鹿瀬ダムまで被害範囲が広がってしまうのです。