国土交通省北陸地方整備局信濃川下流河川事務所 やすらぎのしなのがわ

関屋分水路

関屋分水路全景

2016(平成28)年11月28日撮影

 昭和の始め、信濃川の上流から運ばれてくる土砂によって、新潟港は水深が浅くなり、船の行き来が難しくなると心配されていました。そこで、関屋分水路は計画され、新潟市内で地盤沈下による浸水被害が目立つようになった1960(昭和35)年頃、その計画は本格化しました。
 1963(昭和38年)、新潟市関屋団九郎より競馬場西側を通り関屋浜に至る延長1.8kmの新水路を開削して、信濃川の全流量を直接日本海側へ放流し、新潟市内の信濃川を埋め立てることにより、新潟市を洪水から守ることと、新潟港にたまる土砂を減らすこととを主な目的として関屋分水路事業は動き出しました。
 1964(昭和39)年3月、新潟県の事業として着手されましたが、その6月に起こった新潟地震によって県は震災復興に全力を注がなければならなくなります。1965(昭和40)年に、信濃川が1級河川に指定されたことも重なり、関屋分水路は国の事業として行うことになりました。 着手から8年後の1972(昭和47)年8月10日には、関屋分水路の通水式を挙行しました。関屋分水路工事で働いた人数は延べ60万人にのぼり、総事業費約190億円(建設当時)をかけて行われました。

信濃川関屋分水路事業計画平面図

信濃川関屋分水路事業計画平面図


関屋分水ができる前の様子

関屋分水ができる前の様子
1907(明治40)年頃

関屋分水路通水式

関屋分水通水式
1972(昭和47)年8月10日