(昭和4年度常願寺川流域砂防工事工務報告より現代語訳)

白岩より上流湯川流域は全山ほとんど植物がなく、豪雨のために絶えず崩壊を続け、常に多量の土石を本流に押し出すところであり、明治39年度以降、大正11年度の大災害を受けるまで、多額の工費を投じて砂防工事を施して本年度に至っている。中で最も完全に工事がされているところは泥谷の下流部で20数基の石ダムが護岸、石積み、水路張り石とともに整然として砂防工事の凡例を示すような状態であった。けれども昭和2年6月16日に豪雨があり、融雪と相まって泥谷水源地に大崩壊を引き起こして、数十万立方mの土石が温泉盆地に堆積して一部は湯川へ押し出した。以来、泥谷の名の由来のような状態と化していた。
昭和4年5月23日、終日の小雨が約65mmに達しても降り止まず、夜半、泥谷水源地に大崩壊が発生した。その土石流は泥谷一帯の工事を一挙に流失する大惨事を招いた。泥流は泥谷下流部の約500mにわたる整然とした諸工事を根底から破壊流失させただけでなく、さらにこの間を洗掘し河床を数10mも低下させた部分があった。その土石流は一時湯川本流をせき止め、下流約500mにわたり円丘状に堆積した。転石中の最大のものは長さ12m幅6m厚さ6m、容積432立方mに達した。
この崩壊は最高気温19度、最低気温9度の暖気が融雪を起こしたことが原因と考えられるが、遠因は昭和2年の崩壊以来、水源地盤がゆるんでいたことにあり、今回も温泉盆地にかなり土石の堆積があった。もし盆地に急転直下してくる土石流を抱容する余裕があれば泥谷下流部は災害を免れたかもしれない。一方、このような大泥流が盆地に襲来すると、立山温泉の建物の危険性は測り知れない。泥谷のこういう大災害は、常願寺川の下流民に再び昔の大惨禍を被らせる素因になるものであり、沿岸はもとより県を挙げて深く憂慮し、復旧が1日も早いことを熱望している。

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    昭和4年7月泥谷下流部災害の状況

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    昭和4年7月1日泥谷のガマ石
    (長16m×巾6m×厚6m)432m3
    同年5月14日の土石流に混じって
    流出してきたものである。

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    昭和4年7月湯川、泥谷合流点を
    対岸より望む

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    昭和4年、泥谷砂防堰堤の工事施工前の状況

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    昭和8年10月、泥谷砂防堰堤群竣功の全景