暴れ川を治める~先人たちの取組~

氾濫を繰り返す暴れ川を治めようと、戦国時代から、さまざまな取組が繰り返されてきました。明治時代になると海外から招かれた技術者により、常願寺川上流まで調査が行われましたが、下流域における河川改修が実施されるにとどまりました。明治39年(1906)に着手した富山県による砂防工事で建設された設備も厳しい自然環境の中でたびたび破壊される等、難工事の連続となりました。

① 佐々成政の築堤

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佐々成政の肖像画(富士市郷土博物館蔵)

常願寺川の治水に初めて本格的に取り組んだのは、戦国時代の武将・佐々成政です。成政は天正8年(1580)に越中に入国したとき常願寺川の氾濫を目の当たりにし、洪水から城下を守るために石堤を築くことを思い立ちました。この「佐々堤」は三面を玉石張りにした大堤防であったと推定されています。長年にわたる河床の上昇で埋まってしまい、現在は常西合口用水の川底に天端部をのぞかせているだけです。

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佐々堤(用水の底を斜めに横切る)

② デ・レイケの河川改修

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明治24年(1891)の大洪水をきっかけに、政府はオランダ人技師ヨハネス・デ・レイケ(J.de Rijke)を富山に派遣して、対策に当たらせることにしました。デ・レイケは常願寺川下流の「く」の字型に曲っていた流路を付け替え、延長約7kmの新放水路を開削しました。河口から4km上流側の川幅を広げ、土砂をためる調整地としました。また、上滝付近から河口までの区域で堤防の新築や改修を進めました。

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ヨハネス・デ・レイケ(1842 ~ 1913)
オランダ生まれ。日本政府の「お雇い工師」として明治6年(1873)に来日しました。日本滞在は30年に及び、その間、淀川、木曾川、常願寺川などで河川改修を指導し、日本に西洋の近代治水技術を伝えました。

③ 富山県の砂防

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西四ノ谷の巨石積みの砂防堰堤群

明治29年(1896)の大洪水の経験から、常願寺川上流の砂防工事の重要性を実感した富山県は、明治39年(1906)に国庫補助を受け、上流の砂防工事に着手しました。しかし、この砂防工事全体の基礎となる湯川第1号砂防堰堤(現在の白岩砂防堰堤地点に建設)は、大正8年(1919)の出水で破壊され、その後、湯川第1号砂防堰堤は復旧されましたが、大正11年(1922)7月の豪雨によって再び破壊されてしまいました。

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    大正8年(1919)富山県によって建設された湯川第1号砂防堰堤

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    大正11年(1922)の豪雨災害で破壊された湯川第1号砂防堰堤

④ 国の直轄砂防工事への願い

富山県は「立山の砂防は国の直轄事業として行って欲しい」と国に働きかけていました。大正11年(1922)の湯川第1号砂防堰堤の災害をきっかけに、その声はいっそう高まり、遂に大正15年(1926)5月、常願寺川砂防は国に引き継がれました。

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    大正6年(1917)、静かな山、清い川、災害のないことを願って巨岩に刻まれた碑文

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    直轄砂防を求める大正11年(1922)8月23日付け「富山日報」記事

直轄砂防事業の開始

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赤木正雄

大正15年(1926)、直轄砂防事業の開始に伴い、国はヨーロッパ留学から帰国したばかりの赤木正雄を、内務省新潟土木出張所立山砂防事務所(現在の国土交通省立山砂防事務所)の初代所長に任命しました。
赤木は立山カルデラの出口に強大な砂防堰堤をつくり、カルデラ内の膨大で不安定な土砂を移動させないことが重要と考え、基幹設備となる白岩砂防堰堤の建設と水源地の厳しい現場に大量の建設資材や作業員を効率的に輸送するための砂防工事専用軌道の建設に踏み切りました。

  • ① 白岩砂防堰堤の設計

    赤木は綿密な現地調査を行い、材料として土石流に対抗できるコンクリートを使用した白岩砂防堰堤をみずから設計しました。
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    大正15年当時の立山砂防事務所

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赤木正雄が計画した白岩砂防堰堤及び上流の砂防設備

② 砂防工事専用軌道の建設

当時、立山カルデラへは人力か馬車で資材等を運搬するしか方法がなかったため、白岩砂防堰堤等の大工事を行うために、大量の資機材を運搬するのが可能な砂防工事専用軌道を建設しました。この軌道は現在も立山砂防で活躍しています。

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    建設中の白岩砂防堰堤(昭和10年(1935))