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赤木正雄氏

初代の立山砂防工事事務所長であり「日本砂防の父」とも呼ばれる赤木正雄は、大正3年(1914)東京帝国大学林学科を卒業、ただちに内務省に入省しました。それから滋賀県の田上や吉野川の砂防に従事、9年には大阪土木主張所勤務となりますが、12年には休職し、砂防工学研究のため独力自費で渡欧します。帰国した赤木は技監らと鳶山崩壊地まで踏査、砂防施工は可能であると認めました。また、流域が一県内のみの河川であっても砂防の直轄施行が可能となるよう、砂防法の一部の改正が行われましたが、これにも赤木は努力しています。
そして、この結果、国による立山砂防工事が着手されることになりました。

赤木正雄は、常願寺川砂防工事でもっとも重要な問題は、白岩砂防堰堤のつくりかたにあると考えました。白岩はその名の通り、白っぽい花こう岩質の岩盤が大きく露出している場所で、赤木はここを、荒廃の著しい湯川本流やこれに合流する各支渓に施工する砂防工事の、基点と位置づけたのです。
そのため赤木は約1ヶ月はほとんど毎日白岩砂防堰堤箇所の調査を行い、そのあとで常願寺川全般の砂防計画を立てたのです。
その遠大な砂防計画に基づいて、泥谷砂防堰堤群、湯川砂防堰堤群などの工事が行われ、特に基幹となる白岩砂防堰堤には多くの歳月と費用がつぎ込まれました。

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    立山カルデラを調査する赤木正雄氏

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    赤木正雄が計画した
    白岩砂防堰堤及び上流の砂防設備