提供:新潟県
1964
新潟地震

県下で33万人余が被災
全ての都市機能を奪った激震

1964(昭和39)年6月16日、マグニチュード7.5の地震が新潟を襲った。この日は新潟国体閉会式の5日後で、1955(昭和30)年の「新潟大火」(新潟市)から立ち直り、ようやく経済の高度成長を謳歌しようとしていた矢先だった。
マグニチュード7.9を記録した関東大震災1923(大正12)年に次ぐ規模の新潟地震は、新潟県をはじめ、山形、秋田など9県で多くの人命と財産を奪った。新潟では県民の14パーセントにあたる33万2,000人(6万8,500世帯)が被災した。被害は住宅、工場や店舗など建物はもちろん、道路、鉄道、堤防等の公共施設、電気、ガス、水道、電話などライフラインまで及んだ。

提供:新潟県

液状化現象が
建造物被害を増大

新潟地震は、細かな砂を含んだ泥水が噴出する液状化現象が広範囲で発生し、被害をより大きくした。新潟市は1950年代から地下水からの天然ガス採取に伴う地下水の大量揚水により地盤沈下が起きており、ゼロメートル地帯が年々拡がっていた。そこに発生した地震による液状化現象と、地震発生後間もなく襲ってきた津波が流れ込み、市街地や農地が浸水。その被害は長期化した。
液状化は建造物に大きな被害を与えた。中でも新潟市川岸町に建っていた鉄筋コンクリート4階建ての県営アパートは、建物自体は無傷のまま傾斜し、転倒した。この事例は液状化現象のすさまじさを浮き彫りにし、地震被害と液状化現象の関連が注目を集めるきっかけとなった。

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石油タンクが炎上し
浸水地を燃えながら漂う原油

地震発生からおよそ30分後、津波の第一波が新潟市沿岸に来襲、高さ約2.4mに達した。津波は河川を遡上し、地盤沈下や液状化の被害を受けていた埠頭や堤防護岸を越え、市街地に浸入した。
昭和石油新潟製油所では、激しい揺れによってガソリンを運ぶパイプが欠損し、貯蔵タンクがあふれるなどして引火。浸水被害が広がっていた上を火のついた原油が漂い、次々に燃え広がった。消火活動は難航し、人と火との攻防は一進一退を続け、6月30日にようやく鎮火。この火災で消失した貯蔵タンクは97基、周辺民家300戸余が延焼した。

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普段は親水緑地
災害時は市街地を浸水から防御

地震の揺れと液状化で被災した信濃川下流堤防は、その後襲ってきた津波に耐えられず、ゼロメートル地帯の中心市街地は長期間にわたって浸水被害を受けることになった。応急的な復旧の後、国は1983(昭和58)年から信濃川水門・本川大橋~萬代橋の約4.5kmの区間で「やすらぎ堤」(信濃川本川改修事業)の整備を開始。
やすらぎ堤の整備は地震の揺れに強い緩い勾配(5割勾配)を採用しており、東日本大震災など巨大地震の教訓を踏まえ、堤防の液状化対策を実施している。また、普段は水辺に親しみやすい環境と美しい景観を実現し、同時に川底を掘り下げて水を流れやすくする整備を一体で行っている。

やすらぎ堤(信濃川下流本川改修事業)の概要 [写真・図版提供/北陸地方整備局]

■ 新潟地震の概要と被害

発   生 1964(昭和39)年6月16日13時2分頃
震 源 地 新潟県粟島沖南方20キロメートル(北緯38度21分、東経139度11分)、
深さ40km
マグニチュード 7.5
震   度 震度5(新潟市、相川町、長岡市など)

参考文献:[気象庁]昭和39年6月16日新潟地震調査報告43、1966.

死   者 13人
負 傷 者 315人
建物全壊 1,448棟
建物半壊 5,376棟
建物一部損壊 19,472棟
床上浸水 9,446棟
床下浸水 5,544棟

参考文献:[内閣総理大臣官房審議室]新潟地震災害対策記録1964-12.
※市町村名は震災当時