阿賀野川の歴史
治水の歴史
治水の歴史・藩政時代
今から260年前までは阿賀野川は、新潟市の津島屋より西に折れて信濃川と合流し、日本海に注いでいました。享保15年(1730)、新発田藩主溝口直治氏の名により紫雲寺潟、福島潟の干拓及び同地域の水田開発の目的で、松ケ崎分水路の開削がなされました。この開削によって、福島潟から加治川下流部一帯の阿賀野川の左右岸の水害は軽減され、水田地帯として栄えました。これを図で見ると次のとおりです。
明治時代の治水
※近代治水事業関係図集より
治水の歴史・第1期改修工事
明治以降の改修工事は、大正2年の大洪水を契機に大正4年に馬下から河口にいたる約35km区間について、直轄事業として河道の整正、築堤、護岸など本格的な改修工事に着手し、昭和9年3月に竣工しました。これが阿賀野川の第1期改修工事であり、これによりほぼ現在の河道が形づくられました。
治水の歴史・第2期改修工事
第1期改修工事終了後、戦争の間に荒廃が進んだこともあって、昭和21年洪水で右岸安田町小浮地先において決壊したため、昭和22年度直轄事業として第2期改修工事に着手しました。
治水の効果
新潟の発展の礎は、北前船、河川改修、土地改良、道路交通網にあります。
明治44年の新潟の市街地は、北前船寄港で栄えた古町のみでした。人々は海岸線と平行筋状の砂丘内陸側や微高地に住んでいました。当時は土地改良がされていない土地が多く、亀田郷は腰までつかる泥田でした。
明治44年陸地測量部
現在は、大河津分水路通水と阿賀野川改修により新潟平野の洪水に対する安全度が高まり、土地改良事業・道路交通網が整備されました。このことが81万政令市である「新潟市発展の礎」となっています。
平成17年国土地理院
阿賀野川大改修による阿賀野市の発展
阿賀野川の第1期改修工事により洪水に対する安全度が高まりました。旧河川敷には、京ヶ瀬工業団地ができ、またその沿いの下里桜つづみは地域の観光スポットとなっています。
明治44年陸地測量部
平成17年国土地理院
捷水路整備前の河道状況(昭和22年)
阿賀野川と早出川の改修による五泉市の発展
阿賀野川、早出川の改修により浸水リスクが大幅に軽減しました。早出川の旧河川敷には、大型店舗、保育施設、医療機関が建設され市街地の整備が促進されました。
明治44年陸地測量部
平成17年国土地理院