国土交通省北陸地方整備局信濃川下流河川事務所 やすらぎのしなのがわ

総合学習中にあった質問と回答

水害と歴史に関するもの

Q1
洪水は何回くらいあったのか。
A.
 信濃川は昔から大変洪水の多い川で、江戸時代の大洪水だけでも86回記録されていて中小規模の洪水となると数え切れないほど発生しています。記録として最も古く残っているのは天平13年(741)の「越後佐渡洪水」という記録があるそうです。
 近年では大河津・関屋分水路の完成により、下流域での洪水は随分減りました。最近の30年間では昭和53・60年に大きな洪水が発生しました。
 信濃川に流れ込む支川の被害も数多く発生しており、最近では平成10年に鳥屋野潟と西川が平成12年には能代川と才歩川で大きな被害が発生しました。
Q2
過去最大の水量はどれくらいあったのか。
A.
 洪水の発生した昭和53年6月の2,250m3/秒です。信濃川下流域27年平均流量は387m3/秒です。
Q3
今までの洪水(例 横田切れ ) の被害はどうだったのか。
A.
 横田切れは明治29(1896)年の7月22日、現在の分水町横田の堤防が破堤(はてい)して、西蒲原郡一帯と新潟市まで水に浸かりました。当時の資料によると流されたり壊れたりした家は2,200戸、水に浸かった家は8,900戸あまりにもおよび、11月6日の水止め完了までは、食べ物や飲み水の入手も困難な苦しい日が続いたそうです。
Q4
関屋分水がないとどれくらい浸水されるのか。
A.
 東西は海老ヶ瀬付近より新潟県庁付近、南北は新潟市役所付近から南区役所付近までの範囲が浸水すると想定されます。
Q5
関屋分水の歴史は何年ですか。
A.
 構想自体は古く、文政年間(1818〜1829)に土地改良等を目的として提唱したのが初めと言われています。目的は洪水防止より西蒲原郷の排水だったそうです。
 明治44年(1911)には坂井輪地区の排水を目的として小さな堀が作られました。
 現在の関屋分水路は新潟市を洪水から守るため昭和39年から建設し始め、昭和49年に通水しました。完成後30年が経過しています。  
Q6
今までに大きな問題は起こりましたか。(例えば、洪水や微生物の異常発生など)
A.
 新潟地震による津波の発生や、堤防の液状化現象が発生致しました。
Q7
今まで、一番大きかった水害はなんですか(信濃川)?
A.
 信濃川は昔から大変洪水の多い川で、江戸時代の大洪水だけでも86回記録されていて中小規模の洪水となると数え切れないほど発生しています。記録に残されている大洪水の1つに「横田切れ」と呼ばれる洪水がありました。
 横田切れは明治29(1896)年の7月22日、現在の分水町横田の堤防が破堤(はてい)して、西蒲原郡一帯と新潟市まで水に浸かりました。当時の資料によると流されたり壊れたりした家は2,200戸、水に浸かった家は8,900戸あまりにもおよび、11月6日の水止め完了までは、食べ物や飲み水の入手も困難な苦しい日が続いたそうです。
 近年では大河津・関屋分水路の完成により、下流域での洪水は随分減りました。最近の30年間では昭和53・60年に大きな洪水が発生しました。
Q8
明治29年の「横田切れ」について 被害の状況について詳しく教えてください
A.
 「横田切れ」と言われる大洪水は、明治29(1896)7月22日の朝四時に、現在の分水町横田の堤防が300mに渡り破れ西蒲原一帯18,000haが水に浸かりまし た。同年11月6日まで水は引かず、水害による死傷者の他、疫病・食糧不足により、 たいへん多くの方が亡くなりました。
浸水範囲図
流される母子
流される母子
水が引かず木の上で生活する人
水が引かず木の上で生活する人
水防活動する人
水防活動する人
当時の洪水の様子を描いた「洪水絵巻」
 洪水から約3週間後に新潟県が調査した被害状況報告では、水害による直接死傷者78人、家畜死傷80、救助人数1,000人、流出損壊家屋11,630戸、浸水家屋25,000戸という被害でした。
 注)ただし、文献により被害数についてはバラツキがあります。
Q9
大正6年の「曽川切れ」について
@被害の状況について詳しく教えてください
A曽川切れ後の河川改修工事は何かなされたのでしょうか
A.
@被害状況について
  大正6(1917)年10月2日朝五時に、現在の新潟市曽川地先で堤防が壊れ、水が溢れ出しました。長さ約200m高さ7mに渡り壊れたそうです。中蒲原群一帯8,000haが、水に浸かった状態だったと伝えられています。被害家屋数は約7,600戸、被災者数は50,000人規模にもおよんだそうです。秋の終わりも近づく寒さの中で苦労が多かったそうです。
 中蒲原郡一帯でほとんどの野菜が駄目になり、西蒲原郡と交渉し大根を市場価格(3銭)の6割引、1本1銭2分で中蒲原郡一帯で共同購入し大量輸送したそうです。
 休校状態だった学校の中で、長船に生徒を乗せて授業再開した学校もあったそうです。
 注)ただし、文献により被害数についてはバラツキがあります。
A改修工事について
 亀田郷水害予防組合急施会が組織され、大規模な災害復旧工事が行われたようです。
 当時の軍隊兵も二度にわたり工事に派遣されました。近隣住民も地域毎に工事人夫を割り振り、義援金を広く募集し工事が行われたようです。大正両陛下が被災民に金700円を御下賜したという記録もあります。復旧は堤防を作りながら、水を抜くため部分的に堤防を壊し、また治す事を繰り返したいへん苦労したそうです。復旧作業当時の人夫賃金は、男性1日48銭、女性1日23銭だったそうです。義援金も8,623円集まったそうです。
Q10
昭和53年6月26日の洪水について
@被害の状況についてくわしく教えてください
A当時の河川の状況はどんなだったのでしょうか
A.
浸水範囲図
@被害状況
 昭和53(1978)年6月25日から3日間降り続いた大雨の影響により、五十嵐川・渋梅川・西川・能代川が氾濫し、当時93市町村で被害をうけました。
 当時の国鉄5路線も運行休止に、国道7・8・17号の主要国道から県道・市町村道の各所で水に浸かり通行止めになりました。
 損壊家屋 約2500戸 浸水家屋 約19,580戸
 被災者数 約76,100人
の被害がありました。
埋め立て地範囲図
A河川の状況
 現在の状況とほぼ変わりはありません。やすらぎ堤がなかった位です。
 信濃川が大きく変化したのは治水事業の大河津分水路が完成してから急激に変化したと言えます。さらに関屋分水路の完成で治水効果を向上させました。
:大河津分水路完成後埋め立てられた場所。
Q11
横田切れの他にどんな洪水があったんですか
A.
 他にも沢山の洪水がありましたが、大きなものでは「曽川切れ」があります。
 大正6(1917)年10月2日朝五時に、現在の新潟市曽川地先で堤防が長さ約200m、高さ7mに渡り壊れて、中蒲原群一帯8,000haが水に浸かってしまったそうです。
 被害家屋数は約7,600戸、被災者数は5万人にのぼりました。
Q12
信濃川に関する事件や大きな出来事は何かありましたか。
A.
 信濃川は昔から大変洪水の多い川で、江戸時代の大洪水だけでも86回記録されています。中小規模の洪水となると数え切れないほど発生しています。記録として最も古く残っているのは天平13年(741)の「越後佐渡洪水」という記録があるそうです。
 近年では大河津・関屋分水路の完成により、下流域での洪水は随分減りました。
 信濃川に流れ込む支川の被害も数多く発生しており、昨年は五十嵐川と刈谷田川で洪水により甚大な被害が発生いたしました。
Q13
親松排水機場の周りは海よりも土地が低く、洪水が起きやすいようですが、その対策を教えてください。
A.
 鳥屋野潟は市内で一番土地が低く、配水が集まるようになっています。
断面図
浸水範囲図

  平成10年8月4日、集中豪雨が新潟市域を襲い、新潟市では観測史上最大となる、時間雨量97mm、日降雨量265mmを記録し、通船川や鳥屋野潟流域に大きな被害をもたらしました。
 排水能力を超えた雨水が短時間に流れ込んだため、水があふれてしまったのです。そこで、鳥屋野潟から信濃川への排水量能力を向上させるために、60m3/秒排水可能な親松排水機場のとなりに、40m3/秒の鳥屋野潟排水機場を建設し2つの排水機場あわせて100m3/秒の排水を可能にしました。(※1m3=1,000リットル)
 100m3/秒の排水能力はどれ位かというと、学校の25mプールの水なら3秒で空(から)にできる能力です。