信濃川や中ノ口川などの堤防決壊による水害は3年に1度。その度に越後平野は壊滅的な被害を受けました。また、越後平野の西側に弥彦山や角田山が連なるほか、海岸には標高20mほどの砂丘があり、お盆のような形をしていることから、ひと度あふれ出た濁水はなかなか引かず、「こもり水」として恐れられました。
良寛さんをして、「この世に神様がいるなど疑いたくなる」と言わしめた水害。それでも越後平野の人々は、平穏な生活を諦めませんでした。
越後平野を水害から守るためには大河津分水の建設が不可欠と考え、100人を超える人たちが大河津分水建設の請願を繰り返しました。それにより明治3(1870)年には大河津分水工事が始まりました。
しかし、外国人技師が、「大河津分水ができると信濃川河口の水深が浅くなり、新潟港に影響が出る」と報告したことで、明治8(1875)年に工事は中止となりました。
明治29(1896)年7月22日、歴史に残る大水害「横田切れ」が発生しました。長岡から新潟まで、越後平野のほぼ全域が一面泥海となりました。
たくさんの家屋や田畑が浸水し、被害総額は当時の新潟県の年間予算とほぼ同額。また、低地では11月になっても水が引かず、伝染病で命を落とす人もいました。
一方で、これをきっかけに大河津分水を求める声が一段と強まりました。
明治40(1907)年に工事が決定し、翌々年から掘削が始まった大河津分水工事では、当時最新の大型機械や最先端の技術が使用されました。それでも困難をきわめた工事でしたが、延べ1000万人の人々の献身的な頑張りのおかげで、大正11(1922)年、ついに分水路に初めて通水しました。
通水から5年後、分水路へ流す水量を調節していた自在堰が陥没。これにより、信濃川下流部では水不足となり、新潟市では海水が川を逆流し、水道から塩水が出てくる状況となりました。
そこで、陥没した自在堰に代わり、可動堰を建設する補修工事が昭和2(1927)年に開始されました。青山士や宮本武之輔など多くの技術者と従業者の奮闘によって、昭和6(1931)年に可動堰は完成しました。
可動堰が完成した後も大河津分水の機能を維持するために様々な工事を行っています。川底が削られることを防ぐための堰堤の建設や洗堰と可動堰を新しくする工事も行いました。
越後平野を守るために、大河津分水の機能を維持する工事は今も進めています。
2022年に大河津分水は通水100周年を迎えます。今私たちがこの地で平穏に暮らすことができるのは、大河津分水を実現してくれた先人たちのおかげです。
通水100周年をきっかけに、今一度、大河津分水の役割や存在の大きさを知り、理解を深めていただき、この地が平穏であり続けるために私たちができることを考える機会にしていただければと思います。