軌跡

橋本規明氏の足跡をたどってみたい。
橋本規明氏は、明治35年、鳥取県に生まれた。昭和2年に京都大学土木工学部を卒業後は、内務省土木局に入省。土木一筋の人生のスタートである。

  • 昭和21年、富山工事事務所長として赴任。この後、急流河川をめぐる数多くの発明が生まれるわけだが、富山へ赴任する前には、天竜川や木曽川など緩流河川ばかりを見てきた橋本氏にとって、北陸の急流河川は驚きの連続。立山砂防工事事務所で出した『天涯を護る』という本の中で、

    「常願寺川へ来て、川というのは、流れるものだと思っておったけれど、流れるものは水でなくて石であるというふうに考えが変わってきた」

    というようなことを述べている。この時の思いがその後の研究の大きな原動力となっているのではないだろうか。
  • 昭和24年は、北陸の急流河川にとって画期的な年であった。河底の土砂掘削に大型機械(タワーエキスカベータ)が導入され、本格的な掘削が始まったのである。
  • 昭和25年、高松宮殿下ご来臨の際は、橋本氏が常願寺川改修とタワーエキスカベータ設置について説明した。
  • 昭和27年には、H型、Y型を改良した十字型ブロック根固工を施工。急流河川工法に革命的な変革をもたらすものとなった。
  • 昭和28年、この年に書いた論文がきっかけで、8月に名古屋工業大学に教授として迎えられることになった。これが橋本氏の現場からの引退となる。
  • 昭和31年には第9回中部日本文化賞受賞。昭和40年、大学退官。昭和44年、自宅にて死去。享年67歳であった。

写真

写真は高松宮殿下に常願寺川改修とタワー設置について説明されている橋本所長

時代背景

橋本氏が富山に赴任した昭和21年当時、北陸の急流河川は非常な荒廃ぶりで、河原には下流でも大きな玉石がごろごろと転がっており、それらがもたらした乱流、偏流が各所にみられ、水衝部は極端な深掘れ現象をおこし、そこかしこに危険が潜んだ状態だった。
というのも戦後、日本の河川は相次ぐ災害で復旧に追いまくられていた。そこで全国で十大河川を選び、重点的に改修計画をたてなおそうということになり、橋本氏及び当時三郷村(現在は富山市に合併)の村長であった広井文作氏の尽力により、常願寺川がその1つに選ばれた。
改修計画には水源から海までの水系一環の指針が盛り込まれ、これが今も常願寺川の砂防、河川計画の憲法として生きている。