親子災害

昭和22年6月の黒部川を襲った洪水は、計画流量の1/3程度の洪水でさほど大きなものではなかった。6月28日、左岸、大布施地先で延長300mにわたって堤防の裏小段を残すだけの大欠壊を生じたが、6月30日、減水した時に2日前同様さらに下流500mのところが150mにわたって裏小段を残して決壊した。これを親子災害と呼んだが、これと同様のケースを各所で観察した橋本氏は、結論として100分の1程度の急勾配の河川では、堤防斜面の最下端から30m程度の水制をだせば、その間隔は400m程度でよいという判断にいたったのである。

この水制による処理から橋本工法は展開をみせていった。

議論を呼んだ堰堤無用論

橋本氏は治水にとって欠くことのできない堰堤について独自の理論をもっていたといわれる。いわゆる「堰堤無用論」である。
この堰堤無用論は何かと誤解されがちだが、堰堤がいらないということではなかったようである。

伝聞によれば、上流から流れてくる濁流は狭窄部(きょうさくぶ)をすぎて解放されると、自然に散って急に勢いを減退させ下流へ影響なく流れていくというようなこと。あるいは堰堤を造ってそこに大水の時にたくさん土砂がたまる。これが、中小の洪水の時には堰堤の役割を果たすし、その際に細かい土砂が少しずつ流れれば河床の安定にもつながるというようなこと。

無理に堰堤をつくることはなく、川の上流で狭窄部と広い所とを交互につくっておけば、堰堤をつくらなくてもある程度水の流れは抑えていけるというわけだ。ふつうは狭窄部に堰堤を作った方が楽で有効だと考えがちだが、せっかく狭窄部があるのなら、それはそれで利用してそんな所に堰堤は無用だという考えだったらしい。

北陸現場研究会

タワーエキスカベータが導入され、新工法開発の萌芽が芽生え始めた頃、橋本氏を中心に北陸現場研究会なるものが設立されている。問題を洗いざらい出し合って徹底的に議論する第一線の現場研究の場であり、現場の人間が先頭にたって、戦後の新しい河川のあり方を革新する斬新な研究会であった。

『中部地建25年のあゆみ』によれば昭和24年12月に発足したということだが、発足の経緯等については明らかではなく、黒部川の現場での研究会が第1回と言われている。
研究会は毎月1回程度、北陸の各事務所の代表が各事務所の現場に集まって開催され、部会が事務系と技術系とに分かれていた。事務系では戦後の混乱がまだ収拾されていない時代であったので、合理的な事務整理の方法や直営か請負かなど合理化の問題が盛んに議論された。技術部会では、水制や護岸根固、水系一貫の考え方など、西は手取川から東は黒部川までの現場での問題が次々に持ち込まれるようになり、活発なやりとりは、橋本工法に多大な刺激となったであろう。