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流域の歴史年表

最終更新日:2007.04.26

川と交通

  江戸時代の輸送の中心は舟運でした。速度においても、輸送量においても舟運が陸運を凌いでいたからです。阿賀野川と上流の阿賀川は、外港のある新潟湊と会津を結ぶ、舟運の重要な経路となっていました。貞享3年(1686)に塩川村の栗村権七郎が会津藩から事業資金を借り入れ、船20隻を造って塩川から下ったのが本格的な舟運の始まりと言われています。
 当時は、馬による陸運運賃は河川の舟運運賃の4倍も5倍もかかっていたといわれ、舟運可能な河川と河岸の開発整備が精力的に進みました。阿賀野川河口から津川までは、舟運が発達しましたが、阿賀川は平野を流れる距離が短く、津川から上流塩川までの間は勾配のきつい渓谷になっていて難所がいくつもあり、就航に困難をきわめました。このため近世初頭以来、何回か巨額の費用を投じて舟路の確保に努めましたが、いずれも長続きせず挫折しています。そのため、津川の上流区間は一部陸路を併用していました。

山国会津の物流、下りの御廻米と上りの西入塩

 四方を山に囲まれた会津は、街道と川とを併用することにより物を運び、他地域と連携していました。廻米は、参勤交代で会津藩の殿様をはじめ多くの侍が江戸に常詰めしていたときの扶持米でした。経済が発展してくるに従い、会津藩の財政、幕藩体制を維持するために大阪や江戸に大量の廻米を運ぶ必要にせまられました。
 江戸への廻米は猪苗代に運び、湖上を舟運により秋山に運び、そこから鬼怒川の阿久津河岸まで陸送され、さらに舟で江戸蔵前へと運ばれました。また会津西街道などの陸運に頼る場合もありました。
 大阪への廻米は、津川までの舟で運べる区間は舟運により、舟運の困難な区間は馬で運んでいました。津川からは舟で新潟へ送り、北前船で下関を経由して瀬戸内海を渡って大阪へ運ぶか、あるいは敦賀で降ろし、琵琶湖を経由して大阪へ運んだようです。
 こうして会津藩は、享保8年(1723)には2万6千俵、享保12年(1727)には4万5千俵、最も多い享保16年(1731)には5万4千俵の米を搬送したということです。
 阿賀野川・阿賀川の舟運では、下りで米を運び、上りで塩を運ぶのが一般的で、越後に入ってくる塩(西入塩、西日本で生産された塩)のうち4万俵を会津に運びました。津川までは舟で運びますが、たとえば喜多方へ運ぶ場合は、津川からは越後街道を上って、下野尻→山都→喜多方へと駄送で運びました。
 こうした公用の荷のほか、下り荷としては塗り物や材木、煙草など会津の特産物が、上り荷としては綿布、ニシン、茶、昆布などがありました。
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船・運賃あれこれ

 輸送に使われた船は前期の「弁才船」から後期は「ひらた船」や「さんぱ船」など、さまざまな型の船が使われました。ひらた船は大・中・小とあり、大ひらたともなれば塩が250俵も積めたといい、船の輸送量の大きさがよくわかります。「さんぱ船」は長良川の鵜飼船を改良したもので、「津川船」や「阿賀川船」とも呼ばれたそうです。
 運賃や荷造りの手数料は湊定法に沿って支払われました。公用の米や塩の運賃は時代によっても差があるものの大幅に増額されるようなことはありませんでした。一例を挙げれば、明和2年(1765)の津川・新潟間の塩百俵の運賃は2両1分で、その後も大きく変化していません。後期には収入の8割は船頭が自由に売り買いできる薪炭が占め、残りが塩や米、金額の決まった物資になったということです。

下流の拠点・津川

 「津川船道」の名があることでわかるように、津川は阿賀野川舟運の中継点として賑わった町です。新潟港‐津川間と津川‐会津若松間のそれぞれ70kmを結んでいました。
 江戸時代の船着場は大船戸と呼ばれ、150隻の船が出入りし、百人の丁持衆で賑わい、近くには、船番所、藩の米・塩・蝋などの蔵や物産問屋が立ち並んでいました。
 そのような賑わいから津川は日本の三大河港とも称されていました。
明治時代の阿賀野川舟運の様子
明治時代の阿賀野川舟運の様子
(阿賀野市安田) (木村清氏蔵)

上流の拠点・塩川

 塩川は猪苗代湖を源とする日橋川と檜原の山々から流れる大塩川が合流する位置にあります。地勢上の好位置にあることから阿賀野川舟運の起点となり、米沢街道の中継点にもあたる水陸交通の要衝として、商人や職人が行き交う商業都市として栄えました。
 会津の年貢米は塩川から阿賀川・阿賀野川に通じる舟に乗り新潟へ、反対に、会津では手に入らない塩、綿花、茶、にしん、昆布などは阿賀野川・阿賀川をさかのぼって塩川に陸揚げされていました。
 にしんは海の魚ですが、阿賀野川を通って山国会津へと届けられました。にしん(身欠きにしん)の山椒漬けやにしんの天ぷらなどのにしん料理は、会津の郷土料理として、今日まで受け継がれています。
屏風絵に見る当時の舟運の様子
屏風絵に見る当時の舟運の様子
(喜多方市塩川)

筏流し・薪流し

 会津では只見川や大川(阿賀川)を利用して材木を筏に組んで下流の津川や材木町に流して運ぶ「筏流し」が行われていました。
 また、燃料となる薪を川や用水路を使って流す「薪流し」も行われていました。会津の農家・武家・町家約3万6千戸が年間11万柵(1柵は90cm×180cm×180cmの容積)の薪を必要としていました。途中で薪が止まったり、盗まれたりして40%が減少するロスを考えても大変な量であり、川に頼っていた暮らしぶりがよくわかります。
津川の筏流し(昭和30年代)
津川の筏流し(昭和30年代)

猪苗代湖の湖上交通

 猪苗代湖では、古くから湖上交通が行われていたと言われています。会津藩時代には、廻米輸送などの商品経済の発展に従って湖上舟運が盛んになるとともに、湖岸には多くの港がありました。
 明治時代になると、厳しい禁制の一切が撤廃され、漕運会社も創立されるなど、物資・人ともに自由に行き来ができるようになり、湖上交通が盛んになりました。しかしながら、明治後期に鉄道が開通され、さらに自動車が走るようになると、汽船の姿が猪苗代湖上からなくなりました。
観光遊覧船が周航する現在の猪苗代湖
観光遊覧船が周航する現在の猪苗代湖

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