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越後平野のくらし

最終更新日:2007.04.26


越後平野のくらし

砂州や砂丘に囲まれた越後平野

 大昔の越後平野はほとんどが海でしたが、次第に日本海沿いの砂丘が発達し、内海に阿賀野川や信濃川によって運ばれた土砂が堆積することで、陸地としての越後平野がかたちづくられました。
 しかし、越後平野は海岸に沿って砂丘が発達しているため、海への排水が困難で、平野の低平部には至るところに潟湖や沼地がありました。ひとたび河川が氾濫すれば、あたり一面が大きな湖となるような地域でした。
正保2年(1645)の越後絵図
正保2年(1645)の越後絵図(新発田市立図書館)

潟での暮らし

 潟での暮らしは楽ではありません。福島潟の内沼沖という地域では、どこに行くにも舟を使わなければなりませんでした。田圃は腰まで沈むほど深く、潟や沼の泥土を舟で運搬し、水面下の田に客土する作業を繰り返し行わなければならず、大変効率の悪いものでした。そのような水とたたかいながらの農作業の中から、舟農業という独特の農法が発達し、低湿地で生きる、暮らしの知恵が培われてきました。
 例えば、水はけの悪い湛水田において刈り取った稲を乾かすために稲を架けるハサ木、踏み水車を利用した人力による排水作業など、人々の創意工夫による道具が考案されました。
収穫した稲を干すハサ木と稲取り舟
収穫した稲を干すハサ木と稲取り舟
(山口賢俊氏撮影 新潟市豊栄博物館提供)
 一方で川による利便もあり、地域の人々や旅行者は、交通網として川船をよく利用していました。かつては加治川も阿賀野川・信濃川と河口が同一で、出羽方面からは、真野(紫雲寺)から船で加治川-島見前潟-阿賀野川-沼垂(七里の航路)を経て新潟に通じていました。
 会津方面からは、新発田川を利用して船で新潟に出ました(四里の船路)。加治川や新発田川を船で通ることは、大名や巡見使などのような大規模な通行には利用されることはありませんでしたが、地域の人々の河川交通や個人的な旅行は船を利用するのが普通でした。
ヨシを運ぶ舟
ヨシを運ぶ舟
(新潟市豊栄博物館提供)

『東遊記』における潟の風景

 越後国新潟は、信濃川その外の川々が落ち合い、海に入る所である。海口近くの一、二里の所は川幅が広く一、二里ばかり、渺々として湖のごとく、入り海のごとし、岸より岸まで水はなはだ遠く、浅瀬というものはない。(中略)自分は小舟を借りて新発田の木崎という所まで五里の間を、この川の入り江を伝って乗ったが、その間広い所は二里以上の場所もあった。狭く入り込んだ所は二、三○間もある(中略)。船中から四方を見渡すと、西南から東北へ六、七○里見渡しても山はない。西北には二五里の所に佐渡山が見え、東方には奥州会津の山が見える。
[『東遊記』伊勢国(三重県)出身の橘南谿の紀行文、寛永7年(1795)]

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