阿賀野川の流域紹介

過去の洪水と治水計画の経緯

  阿賀野川の近代的な治水事業は、舟運の航路確保から始まりましたが、大正2年(1913)8月洪水を契機に、阿賀野川が直轄河川に編入され、第一期改修工事として馬下から河口までの築堤や河道整正などが行われました。第二次大戦後、河道の整正や深掘れ対策、堤防の補強などからなる第二期改修工事に着手され、現在に至っています。
 阿賀川の近代的な治水事業は、大正8年に福島県により開始され、2年後には国の直轄工事として着手しています。これにより、袋原、泡の巻、土堀などの狭窄部の蛇行区間で捷水路が開削されました。第二次大戦後は会津盆地の日橋川をはじめとした支川の改修も実施され、湯川や宮川には放水路が建設されました。
 流域では、繰り返す洪水に対して、段階的に治水計画規模が引き上げられ、流域の安全度の向上が図られています。

大正2年「木津切れ」

 大正2年(1913)、8月27日から28日にかけて阿賀野川上流に豪雨が降り続き、28日に木津地先が113間(約205m)にわたって破堤し、そのため、亀田郷の大部分が水浸しになったほか、各地で被害が続出しました。木津地先は古くから破堤の常襲地であり、亀田郷のような低湿地は洪水の度ごとに大きな被害を受けていました。
 耕地は田畑別なく荒廃し、秋の収穫を楽しみにしていた農作物は全て無くなり、住む家もなく、食物もなく…といった惨状の記録が残されています。

木津切れ
木津切れによる被害状況

昭和31年洪水

 7月17日に梅雨前線と低気圧の停滞により、阿賀野川全流域で140mm(2日雨量)を超える記録的な大雨がもたらされました。阿賀川流域では、宮川、日橋川筋の町村が大きな被害に見舞われました。この洪水を契機として日橋川などの改修工事が行われることとなりました。

洪水被害状況
昭和31年の洪水被害状況(塩川町から阿賀川方向を望む)

昭和33年洪水

 9月18日、台風21号の影響で流域は豪雨となり、馬下では24.80mの水位が観測され、流量8,930m3/sに達しました。この流量は2年前の昭和31年洪水で記録された7,824m3/s(馬下観測所)とともに、大正4年(1915)に策定された計画高水流量6,950m3/sを大きく上回っていたため、阿賀野川水系の治水計画の再検討が行われました。この洪水は大川ダム計画検討の契機となりました。

昭和33年洪水写真
左:流出した松浜橋(阿賀野川河口)
右:会津若松市大戸地先での水防活動(阿賀川)

平成14年洪水

 7月9日から11日にかけての大雨は、総雨量が阿賀川上流の羽鳥観測所で300mmを超え、阿賀川(山科観測所)では既往最大流量となる3,360m3/sを記録、支川等の氾濫や老朽化した河川工作物の被害などが多発しました。阿賀野川の水位も馬下観測所で21.95m(戦後10位)を記録しました。

馬越頭首工での出水状況
平成14年台風6号による馬越頭首工での出水状況

平成16年洪水

 新潟・福島県付近に停滞していた梅雨前線の影響により、7月12日から13日にかけて栃尾で421mmとなるなど日降水量の過去記録を更新する降雨となりました。梅雨前線は15日に再び新潟県付近に停滞して16日から18日朝にかけて大雨が続きました。このため阿賀野川流域でも水位が上昇し、農地などが浸水し、交通機関が混乱するなど大きな影響を受けました。