阿賀野川の流域紹介

流域の歴史年表

歴史年表

紫雲寺潟(塩津潟)の干拓

 越後平野は、砂丘にその排水路を閉ざされ、潟と呼ばれる湿地が広がっていました。近世になり、潟を干拓して新田開発が行われるようになりました。これは砂丘に排水路を開削し、潟の水位に下げることができたことによって実現したものです。紫雲寺潟干拓は、落堀川の開削や松ヶ崎放水路が開削されて、成功したと伝えられています。

取り調べ絵図
紫雲寺潟干拓時(享保6年)の取り調べ絵図(竹前茂樹氏蔵)

戸ノ口用水堰の開削

 近世以降の阿賀川流域では、新田開発とともに多くの堰が建設されました。戸ノ口堰は猪苗代湖を水源とし、そのかんがい面積は1300ha以上に及んでいます。若松城下まで引かれた戸ノ口用水は、農業用水のみならず、一般家庭の下水や消火用水など、城下町の都市用水としても利用されました。

戸ノ口用水堰
戸ノ口用水堰

磐梯山の噴火

 明治21年(1888)7月15日、それまで休火山同様だった会津磐梯山が大爆発しました。火口北側の小磐梯山が完全に吹き飛び、秋元・細野・雄子沢の3集落が全滅し、死者461名を数える大惨事となりました。この時、川がせき止められ、桧原湖・小野川湖・秋元湖をはじめとする300余の湖沼群が形成されました。

磐梯山噴火の図
磐梯山噴火の図(福田熊次郎 福島県立図書館蔵)

新潟地震

 昭和39年(1964)6月16日、日本海の粟島沖を震源とする新潟地震が発生しました。新潟市を中心に、至る所で液状化現象が発生し、建物の倒壊や火災など大被害が発生しました。阿賀野川でも津波が遡上したほか、堤防や多くの河川構造物が被災しました。

堤防の亀裂
新潟地震による堤防の亀裂