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阿賀川について

阿賀川の歴史-「○○新田」という地名はなぜついたの?-

阿賀川の西側の地域には、○○新田という地名が南北にずっと続いています。

これは昔の阿賀川の跡を新田開発したためにつけられました。

阿賀川では、天文5年(1536)の「白髭水」と呼ばれた大洪水により、鶴沼川(旧大川)の流れがかわり、ほぼ現在の阿賀川(現大川)の流路に固定されるようになると、鶴沼川(旧大川)は澪筋の宮川(旧鶴沼川にあたる)、永玉川のみとなってせばまり、かなりの部分が河原同然の廃川敷となりました。その面積はおよそ1,400~1,700haくらいであったと思われます。

洪水後、戦乱の世の中が終わって社会秩序が回復する江戸時代になってから、蒲生忠郷、加藤嘉明の支配下の下に鶴沼川廃川敷(氾濫原)一帯に新田が精力的に開かれるようになり、元和7年(1621)に坂下組下金沢新田が開かれたのを最初に次々と開発が行われ、保科氏が会津に入部する寛永20年(1643)頃までのおよそ22年間であらかた開発は終わりました。

江戸時代には、米の取れ高がその藩の財力を示し、会津藩や幕府への税金は米の取れ高を基準に、米自体や永楽銭など貨幣で納めていました。

稲作農耕生活を営む会津盆地にとって、川除け(川の治水工事)と新田開発は、領主はもとより、農民にとっても重要な課題でした。

地名は川の名残り

会津には「○○新田」というように、その土地の由来、特に川に関した歴史が地名に残っています。

他にも川の歴史を残す地名があります。

塩川

塩川町の「塩川」という地名は、当時、この場所が阿賀川舟運の起点の地及び米沢街道の中継地として、会津の物資輸送の拠点となっており、会津では手に入らない塩、綿花、茶、ニシン、昆布なども阿賀川をさかのぼって陸揚げされていたところから地名がついたともいわれています。

材木町

同様に会津若松市にある「材木町」も、昔、南の山々より「筏流し」などによる木材を陸揚げし、売買する商家があったところです。はじめは米代の西方部に集まっていましたが、1609年、蒲生秀行の代に、それら商家はここに移されて材木町と称すようになりました。

四十石

会津坂下町に、通称「四十石」といわれる所があります。ここは四十石積み船が横付けして、坂下周辺の物産や米を積み、塩や海産物を陸揚げしていた名残で、近くに茶屋町があって賑わっていた場所といわれています。

あなたの住んでいる場所の地名は、どんな由来があるのでしょうか?

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