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阿賀川について

阿賀川の歴史-川は昔の高速道路-

江戸時代では米の取れ高がその藩の財力を示します。

会津藩は23万石(寛永20年 藩主:保科正之)で、当時20万石以上の大藩は少なく、大変裕福な藩であったことがわかります。

1石は10斗でだいたい約180リットル、米150kgです。大人1人が1年間で食べる量がだいたい1石です。

その米は直接、家来に配られていましたが、そのうちに大阪や江戸に送ってお金に換えるようになりました。

大阪や江戸へはどのように運んだのでしょうか?

会津では阿賀川を利用した舟運と猪苗代湖を利用した舟運を行いました。

陸上の輸送だと馬1頭馬子1人で米2俵(1俵は4斗)がせいいっぱいです。ところが船では河川の小船でも船頭1人が操る1隻で十数俵、あるいはもっと多くの米を運搬できます。江戸まで概ね20日間くらいかかりました。

阿賀川舟運

阿賀川舟運は貞享3年(1686)に会津と越後を結ぶ舟運(新潟から津川を経て、若松城下まで)を塩川村の栗村権七郎が、藩から事業資金を借り入れ船を20隻建造して、会津廻米船として塩川波止場を下りました。 享保年間に塩川から津川まで完全に通舟するための工事が行われましたが、危険が伴ったので、途中かなりの区間で陸路を使用しました。

会津藩では、年貢米を大阪に廻米するために主に使用しました。最盛期には50数隻の廻米船が往来し、年間およそ5万俵程度の廻米と薪炭や麻苧、煙草、塗物などの会津特産品を送り、帰りには塩を中心に綿布、古手細物、太物、海産物等生活必需品を越後より持ち帰りました。(写真は塩川町HPより引用)

会津から大阪への廻米コース会津から江戸への廻米コース

猪苗代舟運

猪苗代湖からの舟運は江戸への廻米運送のために利用されました。猪苗代湖岸の船着き場は篠山と戸ノ口であり、秋山まで船で、そこから鬼怒川阿久津河岸まで陸送され、さらに船で江戸蔵前へと運ばれました。

猪苗代湖舟運図

川渡し

阿賀川には、いくつかの地点で、街道をつなぐ川渡しが行われていました。主な渡し場を次に示します。

大川の舟渡し

会津と江戸を結ぶ下野街道の飯寺(会津若松市)と上米塚(本郷町)を結ぶ川渡しで、船賃は各藩の武士は免除、一般からは徴収していました。

只見川の渡し

越後街道の船渡で片門(坂下町)にありました。

また、船渡し場の定めができたのは寛文十年(1670)で、越後街道沿いには塚原村、坂下村、片門村、天満村、角島村の5ヶ所、二本松街道には東館村、西館村の2ヶ所、南通り村には上米塚村に1ヶ所ありました。

この他に「中荒井舟渡し」、「蟹川の大川舟渡し」などが、大川筋の貞享年間の中荒井組(北会津村)の風俗帳に記載されています。船渡しのあった地区は、交通及び物流の要所として町が栄えていました。

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