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阿賀川について

阿賀川の歴史-阿賀川と河川伝統技術-

講演録:阿賀川と舟運

会津史学会 川口 芳昭

※ 本講演録は平成13年7月19日に開催の第3回阿賀川河川伝統技術検討懇談会で川口氏が講演された内容をとりまとめたものである。

1.津川船道の始まり

 阿賀川の舟運については、大きな船ではなく本当に小さな舟の舟運です。

 津川までの舟運というのは、かなり前からといいますか、中世あるいはそれ以前の古代から開けていたといわれています。津川までは、さしたる難所もなく、そのためにここまでは早くから開かれていて、船道役所というような役所も出来ていたと報告されています。しかし、津川より上流、塩川までの間には西海枝の瀬、明神の瀬、銚子ノ口などの難所がいくつもあり、とうてい舟の通れるような穏やかな川ではなかったといわれています。

2.阿賀川の舟運

 ここに舟を通そうという最初のもくろみは元和4年、蒲生忠郷の時代に始まり、京都の角倉宝重庵という人に頼み、ここを見分してどのような工事をしたらよいかというような案を立てました。元和6年になり、工事を始めましたが、大黒岩の崩落などあって中止になってしまいました。

 利田ノ滝というものがありますが、この滝というのは元和6年に大黒岩というのが崩落し、ちょうど川にスポッと入ってしまいました(現在も残っている)。そのために元和4年にもくろみされた川の工事はそこで頓挫してしまい、角倉与左衛門が設計したものは中途で取りやめになったと記されています。その大黒岩が落ちたところの滝は大体1丈もあったといわれていますが、昭和18年に山郷発電所ができ、現在では、水を満々とたたえていますので、利田ノ滝は全然分からないです。それ以前の時代の5万分の1の地図を見ると、その当時落ちた大黒岩の姿が地図の上に載っていて中州のような形をしています。

 寛永20年、保科正之公が山形の領主であった際に秋田から杉板50枚を買って、庄内の藏にしまっていました。しかし、会津へ転封になった際、それを会津に運びたいということになり、津川までは船でなんの苦もなく運ぶことができました。津川から上流へは、陸路を通ると1枚の板を大体6人がかりで運ばなければならないような大きな板であり、その板を運ぶために街道を歩いたのでは、一般の通行人の邪魔になってしまうということで、船でここ(阿賀川)をずっと上っていきました。

 各村々から船を出すようにして、その船に乗せながら次から次へと運び、利田ノ滝の下まで運んで、それから陸に揚げて滝の上まで行き、また別の船に乗せて・・・、というような方法で若松城下まで運んだといわれています。

 このとき、阿賀川の舟運は大切だ、ぜひ船が通れるように工事をもくろんでみろということになり、正保2年に阿賀川を実地検分し、どのようにしたら船が通れるようになるかという工事をしました。穴生頭添島善兵衛に鉄砲衆80人を添え、川筋を水面すれすれに出ているような岩をぶっかいたりしながら、船が一応通れるようにしたといわれています。しかし、その翌々年、慶安2年(1649年)、どうしても上手くいかないということで、普請の中止を申し渡しております。その後、民間の業者、塩川の栗村権六という人が、また川普請をやって山形の大石田から石割人足を頼んで、川をきれいにしたりして船を通れるような方法を考え、米廻船の免許を得ております。

 貞享2年の塩川-新潟間の廻米船道の開削計画では、普請の見積を坂本与次右衛門が行い、9,669人の人歩を使用したといわれています。この計画も肝心な大黒岩や銚子ノ口のところでは決定的な普請ができませんでしたが、それでも何とか舟運ができるようになりました。

3.阿賀川舟運の運賃図

 なぜ会津藩はこれだけ川に執着したのでしょうか。会津藩は上方廻米を享保8年には2万6000俵でしたが、享保12年には4万5000俵、最も多い享保16年には5万4000俵のお米を新潟から大阪の方に搬送しなければなりませんでした。というのは、北前船が寛永年間に就航し、非常に交通がよくなったのですが、会津藩は京都や大阪の方で借財をしていましたので、その見返りとしてどうしても米で返済しなければならない状況にありました。

 貞享2年、5万俵の米を塩川から津川まで運ぶとすると、塩川から津川までを馬だけで運んだ場合と塩川から利田ノ滝の上で荷を下ろし、馬で運んで、また船で運び、下野尻のところであげて、それから津川まで馬で運んだ場合の運賃の差というのは、たった1両1分ぐらいの差しかなかったのですが、結局舟運の方が少なくて済んだとなっています。最も大きな利益は、馬で米を運ぶと、375俵の米の目減りが生ずるということです。舟運で運ぶと駄賃と目減り合わせて93両分だけ少なくて済むということです。大体10両40俵の計算になります。結局、これだけの量を舟運で運ぶと収益になるので、ぜひ舟運をやりたい、舟運に努めたいというようなことになったわけです。また、北前船で運ぶときは一番船積みが4月限り、二番船積みが6月と、それ以外の時は、風向きが変わり、船が瀬戸内海の方にいかないので、4月と6月に限定されていました。ちょうど農作業の田植え、あるいは田起こしの忙しい時に村から人夫を徴用することは仕事に支障を来すわけで、馬に比べ、船で運べば人夫も少なくて済みます。そんなことから会津では本気になってこの舟運を考えたわけです。

 ところが、口では簡単にいいますが、実際にやってみるとそうはいかなかったようです。勘定頭の赤羽吉左衛門は相模の国に行って人夫を集め、専門的に携わっている人たちを集中的につぎ込んで、何とか利田ノ滝も大きな黒岩の両側を掘るようにして、通れるようにしました。しかし、銚子ノ口にいたっては、そう簡単にはいきませんでした。

 4~5万俵の米を下げ、今度は上りで塩を運ぶ。越後に入ってくる塩のうち、4万俵を会津に持ってくる。津川までは船で運びますが、そこからは船でも大変で、喜多方の方に運んだ塩は越後街道を上って、下野尻から柴崎にわたって山都を通り、喜多方まで全て駄送で運びました。現在の高郷村周辺の人たちが駄賃取りという形で塩を運んでいました。1日目に津川まで行って塩を買い、そこで一泊し、次の日は家まで戻ります。そして、その次の日に喜多方を往復するというように3日がかりで運んでいました。また、津川の町の飯米が不足していたので、喜多方からの帰りには必ず米をつけて帰ってこなければなりませんでした。

 塩の方は値段の差がないと儲けにならないので、段々と運ぶ人が減ってきました。そこで、必ず津川の倍の値段で買い取ることと決められていました。また、同じ喜多方でも、小荒井と小田付があり、小田付の方がちょっと距離があるので、津川値段の11割増しで購入することになっていました。米は相場で売ることになっていたので、値段の取り決めはなく、往復して、何とか収益をあげていました。

 享保14年、川の水が少ないときは喫水の低い 船というのを使っていましたが、船底をこすったりして大変でしたので、京都の岡田道幽に頼んで藩の事業としてかなりの藩費を使って大々的に工事をやりました。

 図に舟運の運賃図(新潟大の山崎久雄先生による)があるが、このように荷駄はさも全部運賃が決まっていました。しかし、全てに船が通っていたわけではなく、利田ノ滝の上流で荷を下ろし、明神ヶ瀬のところでまた船につけて柴崎を経由して端村まで行き、端村で荷を下ろして、駄送で徳沢まで運んで、またここから船で運ぶような方法をとっていたようです。ですから、会津藩としては荷物が雨に濡れては困るので、荷物小屋や番小屋をつくり駄送していました。

 特に先ほど述べたように、短期間に5万俵もの米を運ばなければならなかったので、ありとあらゆる道路を使っていました。奥川の通りでは、姥石というところで揚げた米を、中反を通り、今の奥川の新町や吉田を通って、杉山というところまで運んで、そこから船に乗せていました。こちらの方では、馬が非常にくたびれて、子を持たなくなって困っているので、米運送をやめさせてもらいたいというような陳情書を藩に出しています。また、米沢藩で紅花とカラシムを搬出するとき、自分の領地である荒川の方は非常に風儀が悪く、運んでくれないようなこともありましたので、会津をぜひ通させてもらいたいということで、津川まで駄送にしていました。

阿賀野川水運図 「阿賀」山崎久雄氏の「津川町の水運」による

阿賀野川水運図 「阿賀」山崎久雄氏の「津川町の水運」による

 川を下る時は、流れにのっていくのでよいが、上がるときには人が船を引き上げなければならず、船の舳先に綱をつけて、それを四、五人で引いて上がりました。この人足を綱手人足といい、組単位に割り当てていました。周辺の村々から人足を集めて、川淵を引っ張り上げさせていました。また、普通の道路では綱がうまく引けないので、川縁の水面すれすれのところに道をつくって、そこを引いて上っていました。これを綱手道といいます。また、大水などが出ると、石が川の中に転げ落ちるので、その石を上げるための人足もありました。(資料「関係古文書」参照)

 このように、舟運を続けていきたいがためにこれだけの人夫を使役していました。

 現在の山都町の郷頭の家には、「二ヶ年乗り下げ成就いたさず過分に御損失になる」(文政12年)というような文章が残っており、実際は口で言うほど上手くいかなかったことがわかります。

4.明治以降の舟運

 明治以降の舟運を見ると、表のように塩川方面にはほとんど船の数がなく、ずっと通して舟運が行われていたというよりは、近いところを乗って荷物を運んでいたというようなことがわかります。津川から下流になると、船の数がものすごく多くなり、その船の数を見ただけでも、津川の上流と下流の違いがはっきりと出てくるかと思います。

 ですから、阿賀川舟運というのは、行われてはいたが、実際にはそれほどではなく、特に難所がいっぱいあったので、そこの開削が上手くいかなかったようです。

 先ほどお話しをしましたが、米沢藩の明和9年の材木は、岩月、現在の喜多方を通って塩川で筏を組んで流しています。ここを流して、それから青森県の方をぐるっと回って、江戸まで持っていきました。途中暴風にあって、北海道の方までも流れていって、それからまた戻ってきたというような苦労も書かれています。そんなことで、水に濡れてもいいような材木類などは南会津の方からも盛んに行われていたようですが、米など水にぬれると悪いような品物については、阿武隈川などに比べるとそれほど盛んではありませんでした。特に明治になると、人夫を使っての転石の始末や綱手道普請などが簡単にできなくなったので、自然と阿賀川の舟運は衰微してしまいました。

    問屋 船数
清水河岸(塩川) 大塩川 1
堀切北河岸(会知) 阿賀川 1 2
山崎前河岸(山科) 阿賀川 1 2
柴崎河岸(豊洲) 阿賀川 1 3
徳沢河岸(徳沢) 阿賀川
坂ノ下河岸(浜崎) 堂島川
大船戸・新港戸(津川) 阿賀川 85
小松河岸(小石取) 阿賀川 76
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