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阿賀川について

阿賀川の歴史-阿賀川と河川伝統技術-

講演録:戸ノ口堰用水の歴史と現状

戸ノ口堰土地改良区 小松 武彦

※本講演録は平成13年1月30日に開催の第2回阿賀川河川伝統技術検討懇談会で小松氏が講演された内容をとりまとめたものである。

はじめに

 今日は、私の方から戸ノ口堰の歴史と地域用水利用の歴史的背景、地域用水の習慣性、非灌漑期における地域用水利用の実態について説明したいと思います。

1.戸ノ口用水堰の沿革

 戸ノ口堰は今から372年前、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。

 それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しました。しかし、内蔵之助も個人ですので、資金がどうしても続かないということで、途中で中止しました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。それにより約15年かけて八田分水まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助という人は八田堰の堰守に任じられ、その土地の用水堰は「八田野堰」と名付けられました。

 それからまた開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。これが第1期、第2期の工事になります。

 第3期工事は、河沼郡槻橋村(今の河東町槻木)の花積弥市という人が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓したいということで、また藩の方に申し出て行いました。次の第4期工事で会津若松までつながるのですが、1693年に北滝沢村(今の一箕町北滝沢)の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも水を持ってきたいということで願いでて、開拓しました。長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山の方まで持ってきたということになっています。当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで約31kmあり、1693年には八田野堰から戸ノ口堰に改名されました。

 今まで、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になります。そこで、会津藩としては、どうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいというのが願いでした。

 それから約200年以上経った1835年(天保6年)、時の藩主・松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5,000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。戸ノ口堰は1623年以降212年経過しており、山間部を通ってくるので、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなったということで、堰幅、深さを改造した。

それまでは、飯盛山の北西にある水路を通っていましたが、その時初めて飯盛山の洞窟約170mを掘りました。この洞窟には、慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、飯盛山の洞窟を通って飯盛山に登り、自害したという有名な話があります。(*写真-1)

 その後、会津藩も負け、新たに明治政府が出来ました。明治15年、失業武士を救済するための安積開拓事業に伴い、十六橋水門の工事を行いました。オランダの土木技師フアン・ドウルンを招いて、十六橋に水門をつくり、湖の水位を高くして安積平野に水を引きました。十六橋水門については管理上、安積疎水土地改良区になるが、最近、新聞などに出ているように、今は治水管理も兼ねて県の方が入ってきております。ですから、現状の十六橋水門は兼用工作物になりす。戸ノ口堰土地改良区の方ではもともと既存の水利として十六橋の所を持っていたので、今は十六橋水門の一門、二門が戸ノ口堰の取水口となっています。(*写真-2)

白虎隊が逃れてきた洞穴

*写真-1 白虎隊が逃れてきた洞穴

戸ノ口十六橋水門

*写真-2 戸ノ口十六橋水門

2.地域用水利用の歴史的背景

 これから戸ノ口堰の水が歴史的にいかに使われてきたかということを説明したいと思います。

 もともと湯川というのは、昔は羽黒川、別名黒川と呼ばれ、そこから分かれた車川との間に会津若松城がつくられました。雁堰というのは会津藩の戦略上、最も重要な隠れ堰として藩が直接管理していたということで有名です。これについては戊辰戦争の時に大部分が焼失してしまい、出来たのがいつ頃かというのは正式には分かりませんが、一説によると1592年頃だといわれています。

 それまで、会津藩は雁堰の水をお城の水や生活用水、防火用水、水路維持用水等として使っていました。しかし、先ほど話したように日照り等があれば渇水になり、水が来ないということで猪苗代湖から戸ノ口堰を使って入れていたわけです。ただ、この辺りの地形は東が高く西に低いために、いつも水を貯めておくことは出来ないので、どうしても水を流さなければいけないということで、昔から多くの水が流れていたという経過があります。

 戸ノ口の水は昔から精米、製粉等、あとは繭、絹工業に使われており、それにちなんだ地名に伴った橋や川(糸かけ川、糸かけ橋、玉繭橋等)がまだ残っているところがあります。また、会津は海から遠い地域ですので、昔から鯉の養殖が盛んに行われてきており、戸ノ口の水を使って養殖が行われたといわれています。

 また、戸ノ口堰本水路の脇には、石段を下がっていき、本水路の水を利用して野菜や農機具を洗ったり、風呂の水を汲んだりしていた洗い場が残っています。(*写真-3)

用水路(洗い場跡)

*写真-3 用水路(洗い場跡)

3.地域用水使用の習慣性

 ご存知のように土地代には維持管理費として年貢、賦役等の徴収をしてきました。しかし、明治以降になり郡役所、町役所に変わり、「町村入費」、その後は水利土功会、普通水利組合の「水利費」として賦課対象になっております。

 土功会というのは、水路の延長が長いので、行政での区割りが難しいことと、明治以降になり産業も発展して、農民以外の人が地域に入ってきたということで、市町村ではどうしても調整が難しいということで、その河川の流域を管轄する土功会が発足しました。それが発展したのが水利組合、戦後になり土地改良法に伴って土地改良区となってきました。

 戸ノ口堰土地改良区としては、土功会、水利組合になってから水利費以外に「宅地賦課」ということで昭和50年までに非農家の人、一般の方から水車、電力、水を使う全ての鯉とか池からも賦課金を頂いていました。ただし、これも昭和52年に廃止しまして、その代わりとして会津若松市の方に通水維持負担金という形でもらっていました。それも平成元年に市の方で変更があり、現状では管渠整備負担金ということで470万円をもらっています。

4.非灌漑期における地域用水利用の実態

 非灌漑期における水利用の実態としては、生活用水、冬期間の消雪用水、普通であれば家庭の雑排水、村民の用水、それから防火用水という形で使われています。

 戸ノ口堰土地改良区の猪苗代湖からの水利権上の取水量は灌漑期で最大3.858m3/s、非灌漑期は1.507m3/sです。また、雁堰の東山ダム(湯川)からの取水量は、灌漑期で最大0.175m3/s、非灌漑期は0.089m3/sですが、現在は県管になっておりまして、県の方に水利権のお願いをしています。それが認められますと、雁堰の最大取水量は灌漑期が0.038m3/sと大分少なくなり、非灌漑期は0.04m3/sということで多くなる可能性があります。まだ正式な県の認可はもらっておりませんが、うちの方では一応この数字で申請してあります。

 それに対して、会津若松市の面積は1,164haですが、市の方で市街地の水路に水を流して欲しいという流量が毎秒0.7m3/sである。これは、戸ノ口本堰・雁堰用水全体の非灌漑期の合計取水量1.682m3/sに対し、43.6%の水を流すことになり、うちの方で幾ら水を調整しても現況では無理な量です。

 水を流さないと水路の水がなくなってしまい、そのために天気の良い日は水路の悪臭がひどくなって、水を流してくれという声が夏場はかなり出てきます。会津若松市の方でも最低10cmくらいは水路に流してくれと前からいわれているが、10cm流すというのはかなりの量で、計算すると0.7m3/s以上になります。とてもそんな水量は流せないのですが、そうしないと下流の方に問題が色々出てくるといわれています。

 会津若松市の下水道事業は、普及率は平成7年度で大体32%ですが、平成11年度では約49%と上がっています。それでも過半数以上はまだ流れていないということで、うちの方で水を流さないと悪臭の原因になるといわれています。

 第2点として、観光施設への水の流入です。お城の水と御薬園(*写真-4)の水、どちらもうちの方の水を利用しております。御薬園の水は現時点でも猪苗代湖から来る戸ノ口用水の水を中心に入れています。また、お濠の水も、うちの方の水を湯川に落ちる最後の分水で調整しながら入れています。お濠は面積も特に大きいので、うちの方の水では足りないと市からいわれており、市の方では年間を通して毎秒0.5m3/sくらい欲しいといわれています。しかし、とてもそんな水は流せるわけがなく、うちの方では特に夏場はお城の水が濁って臭くなってくるといわれていますので、最悪の場合は湯川に落ちるところにある分水を市のほうで45度くらい立てて、半分は湯川、半分はこちらに流すような調整はしようがないのかなと見ています。しかし、水利権上の問題もありますし、分かると下流の組合員から大変な問題になりますので、そこら辺は私のほうでも苦慮しているところです。

 御薬園についてはうちの本水路から戸ノ口の猪苗代湖の水を入れ、その下流にある会津工業学校のほうの水路に行きます。それが、次の第3点に出てくる消雪溝の水にも使われています。会津若松市の観光施設である御薬園、お濠に水が欲しいとなれば、会津若松市の方で水利権を取り、きちんと対応してもらえばいいのですが、これも猪苗代湖の水が余っていないという問題があって、難しいのかなと思います。これについても会津若松市にどんな考えがあるのか分からないところがあるのですが、いずれ色々と問題が出てくるものと考えております。

 第3点ですが、先ほどもふれた消雪溝(*写真-5)です。冬期間の水の流入ですが、雪が降ると会津若松周辺の市民はどうしても水路に雪を入れてしまいます。そのために、最近水がこないというお叱りの電話と、逆に水を開けると浮かんでくる霜をどうするのかという相反する問題の電話が入ってきます。そこで、会津若松市では昭和56年か57年に消雪溝の水路を造りました。私が知っている範囲では現状5本の消雪溝の水路があり、その水はみんな戸ノ口堰の水と雁堰の水を使っています。

 博物館前の道路脇の水路も消雪溝になっており、これはうちの本水路の水を利用しております。会津工業学校の前の水路については雁堰と戸ノ口堰の猪苗代湖の水を入れて利用しています。会津若松ガス本社前の東山街道を下がったところは現状では雁堰の水を対応して使っている形になっています。それ以外に、その下流に横断する水路が2本あるが、最終的には会津女子高校前にある藤室堰の水に入っていき、そのまま真っ直ぐ下り、湯川に流れます。

 消雪溝の水については、会津若松市の要求する水深10cm程度の水量では足りず、これ以上出してくれといわれてもなかなか難しいです。そのために、現在、猪苗代湖から流れてくる戸ノ口の本水路の各分水を調整しながら各消雪溝の水に対応するような取り組みをしています。なお、非灌漑期の水についてはうちの方で特別に灌漑用水はないので、市内の各分水を利用し、水の回しについては会津若松市の土木課にある河川係が対応しており、戸ノ口のほうではその本元である主要な堰の調整をやっています。

 第4点の防火用水についても戸ノ口の水が使われています。市街地の消火活動については消火栓に対応しており、約100mごとに消火栓を作ってあると聞いています。それで何とか足りるかもしれませんが、農村地域は消防署から遠く離れており、ポンプ車が来る前に地元の消防団が川の水を止めて、可搬式のポンプに水を入れて消火するということが結構あります。農村地域でも防火貯水槽を作ってある地区もありますが、そういうものがない地区がほとんどです。現実の問題として消火栓で農村部まで消すというのは難しいものですから、やはり水路とか河川の水で対応するのが一般的かと考えています。

 が、昔から川の利用が人間生活のために絶対必要であったということです。

御薬園

*写真-4 御薬園

消雪溝

*写真-5 消雪溝

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