コンテンツ

阿賀川について

阿賀川の歴史-阿賀川と河川伝統技術-

講演録:阿賀川-川と人とその歴史

会津史学会会長 大塚 實

※本講演録は平成12年10月5日に開催の第1回阿賀川河川伝統技術検討懇談会で大塚委員が講演された内容をとりまとめたものである。

はじめに

 「阿賀川-川と人とその歴史」と題して、話したいと思う。

 阿賀川の改修70周年記念の時(平成5年)に、阿賀川史というものを作った。その時、建設省の所長から阿賀川の流域史の研究をやってみたらどうか、何か提案をしてみたらという話があり、私は目次案を作ったが、引き継がれないで終わってしまった。歴史、民族、その他阿賀川についていろいろな問題を研究したら、将来阿賀川の研究などに役立つと思う。

1.前史
(1)河川の氾濫期 段丘の形成

 阿賀川の氾濫期において段丘が形成されてくると、人々は段丘の上に定住するようになった。会津では田島や南郷、伊奈川の近辺などで、旧石器時代の遺跡などが見つかっており、1万5,000年から紀元前2~3世紀頃まで人々は段丘の上に定住していたことが実証されている。

(2)農耕生活の始まり

 その後、弥生時代から古墳時代にかけて農耕生活が展開する。古墳時代の基礎になるのは稲作の生産力であり、稲作の生産力をバックにして大きな権力が生まれてきた。また、大塚山古墳やその他の古墳より、そのころ大和朝廷との結びつきがあったことも分かる。

 稲作が始まると、当然、水が必要となり、湧き水から始まって小さな河川の水を利用するために、河川の制御ということが必要になる。また、河川はしばしば暴れるので、そのためにも河川の制御が必要となる。

2.阿賀川の利水 村落の平坦地への移動
(1)生活用水、灌漑用水、水力利用(水車など)

 私は治水と利水というのは交互に関連をしているが、どちらが先かというと利水が先であり、利水のために治水が必要だというふうな認識に立っている。

 生活用水、飲料水、その他の生活用水、灌漑用水などの原始的なものから、水力を利用して生産物の加工を行う水車(この辺りでは「ばったり」という)など、江戸時代になるとだんだん込み入ったものが出てきた。

(2)物資運搬のための河川利用

 また、このような利水とは別に、物資運搬の手段としても河川が利用されるようになった。河川については、なるべく抵抗しないで、それを利用しようというのが昔の人の考え方でした。もちろん、人間の生活を脅かすようなことや、せっかく耕作した田畑を荒らすようなことになれば、治水ということも考えなければならないが、自然の川を利用するということが、江戸時代からずっと続いた川の利用の方法だろうと思う。

3.阿賀川の治水
(1)災害(洪水、暴風雨、地震)

 改修70周年記念の阿賀川史の中にある年表から数えたところ、推古期から幕末までの1258年間に192回の洪水、暴風雨、地震等の災害が発生しており、さらに明治以降、昭和までの120年間の間に80回の災害が数えられている。これはただ数えたのみだが、これだけの災害があったということです。

(2)塔寺八幡宮長帳の記録による阿賀川の流路

 応永26年(1419)の阿賀川の流路(*図-1)については、塔寺八幡宮という記録がある。塔寺八幡宮の記録というのは、会津の歴史を研究するのに必要な最も古い資料が載っているもので、この塔寺八幡宮の長帳に河川の流路が書かれている。

(3)天文5年白髭水以後の阿賀川の流路

 天文5年(1536)白髭水以後の阿賀川の流路(*図-2)は、現在の流路に近いものになっており、むかし鶴沼川と言われていた大川も流路の変更があった。天文5年以後の流路図は、塔寺八幡宮の長帳に書いてあるものを保科正之の時代になって「会津旧事雑孝」というものに編纂した人が、その記録をもとにして作った図面である。よって、これが本当にそうだったのかということについては定かではないが、その後の新田開発の事実を見ると、このような河川の流れであったということがはっきり分かる。

(4)会津慶長大地震による山崎湖の出現

 慶長の大地震(*図-3)は1611年にあった。会津ではサイ蒲生の時代で、このときの大地震により山崎湖が出現した。この山崎湖の水抜きは大変だったようである。松山藩において鉱山開発と河川開発で活躍した加藤嘉明が、その技術を持って松山から会津に入ってきて、山崎湖の水を抜こうとしたが失敗。保科氏の時代に変わってから、何とか水抜きに成功したということで、この山崎湖がなくなった。

(5)阿賀川の河川改修の歴史

 改修の歴史については、阿賀川改修70周年記念の阿賀川史に書いた人が、その後「琴中趣」という本に書いたものがある。江戸時代の河川改修については川除普譜ということで、河川の氾濫があると「恐れながら書き付けをもって願い上げ奉りそうろう」というような陳情書を出して川除普譜をやる。川除普譜の内容として、村だけあるいは周辺の村の協力を得て普譜をやるという自普譜がある。また、御普譜というものがあり、恐れながら書き付けをもって願い上げ奉って、では御普譜にしようということで、1人の人足に1日米5合を与えてとにかく普譜をやるというものもある。その他、なかなか自普譜や御普譜だけでは川除普譜が出来ないという時に、請負普譜というものがある。

応永26年の流路

*図-1 応永26年の流路

天文5年以後の流路

*図-2 天文5年以後の流路

会津慶長大地震の震央地域

*図-3 会津慶長大地震の震央地域

4.灌漑と新田開発
(1)寛文6年(1666年)会津藩に於ける村数・田畠・戸数・人口・牛馬数

 現在の会津である会津郡、耶麻郡、大沼郡と河沼郡を合わせて2万9千町歩が田畠である。その内53%が田であり、既に寛文年間(1666年)の時代には灌漑も相当進んでいた。戸数は3万1千、人口は18万8千人です。馬についていえば、昭和40年までは1万6千頭で、40年を2,3年過ぎるとパタパタと馬がいなくなり、現在はほとんど会津にはいないというような状態である。

(2)阿賀川の旧流路に開かれた新田の状況

 寛文時代、会津には村落が全部で900あり、中世の相当早い時期に、河岸段丘の上から村落が平坦地にだんだん降りてきて、自然発生的に村が出てきた。

阿賀川の旧流路に開かれた新田の状況

*図-4 阿賀川の旧流路に開かれた新田の状況

(3)会津藩における新田開発状況

 新田村は猪苗代湖の付近が一番早く、その後大川であった旧河川の上部が、100年ぐらい経つと耕作可能になるということで、どんどん開発されていった。

 会津藩の新田開発の状況は、「家世実紀」に書かれており、寛永20年から寛文8年までの26年間で1万552石9斗開発されている。大体1反1石と考えたらよいので、1歩町を10石として計算すると、何町歩ぐらい開発されたかがわかる。天文5年の領内の総石高が30万5,774石であるが、会津での実際の米の取れ高で、一番多いときは40万石くらいであった。

(4)現在の会津地内の耕地面積と人口

 人口の中でも、農村人口というのは、年貢米を確保するために絶対かかせない調査であり、常に把握してある。「家世実記」の中にも、毎年その人口が記されている。しかし、その人口には城下町の人口、武士の人口それからエタ非人の人口が除外されており、それら全てがわかるのは、会津藩では、幕末までの間で1回しかない。それによると、現在の会津に相当する地域での人口は21万7,277人であった。耕地面積については、現在3万4千ヘクタール、昔は2万9千ヘクタールであった。

5.川の利用
(1)街道の舟渡し

 先ほど述べたように、昔の人のなるべく川に逆らわないで、川をうまく利用していこうという考えの1つとして、街道の舟渡があります。街道は会津5街道といわれ、江戸に行く主街道であった白河街道や、本郷を通って江戸に行く下野街道(*図-5)、米沢街道、越後街道、二本松街道がある。街道の呼び名というのは会津からの名前で、越後街道というのは会津での名前であって、越後からいえば会津街道です。下野街道は、会津から見れば下野に行く街道だから下野街道、下野からいうと会津街道となります。会津街道は東街道(白河街道ともいう)、中街道、西街道と3本あった。このうち、西街道という言葉が一番使いやすく、語呂が良いということで、会津西街道(今の下野街道)と呼ばれている。

 この5街道において川があると、今のように橋で渡るというわけにはいかないので、船を利用して渡る。船を利用するといっても、櫓でこぐのではなく、綱を張っておいて、綱をたぐり寄せて船を渡していくという方法です。冬はだいたい水が少なくなるので、橋を渡したようです。大川ダムによって水没した桑原と小出をつなぐ橋の下に舟渡があり、橋渡しの古文書があった。

 「相渡し申し一札の事」

 「1つ、舟人役の儀、3人ずつにて1日1夜ずつ船小屋へ相詰め、油断なくきっと相勤め申すべくそうろう事」「舟賃の儀、お定めの通り本荷台1段につき10文ずつ、子分1人につき5文ずつ、商人は1度につき8文ずつ取りこし申すべく、このお定めのほか一銭なりとも増し取りまじき事」「お侍方並びに御奉公人の方、舟賃一銭も取り申さず、大切に渡し申すべくそうろう事」というふうに書いてある。

(2)舟運(廻米、商品)

 廻米は、参勤交代で会津藩の殿様をはじめ多くの侍が江戸に常詰めしていた時の扶持米であり、必要不可欠なものでした。やがて、経済がだんだん発展してくるに従って、会津藩の財政、幕藩体制を維持するために、大阪に送ったり江戸に送ったりと、大量の廻米が必要になった。そこで、江戸に送る廻米は猪苗代に運び猪苗代の湖上交通で福良に運び、福良から北関東を通って鬼怒川に乗せて運んでいた。このように出来るだけ河川、舟運を利用して廻米を江戸や大阪に運んだ。(*図-6)

 大阪に運んだのが、今でいう手形という形で、事前に金を借りておいて、後から米をやるというものでした。これにより、会津藩の財政はものすごくひどい状態になった。結局、米商人の流通の中に巻き込まれてしまったことが根本的な原因だろうと思う。

(3)流木(筏流し 薪流し)

 流木ということも、河川になるべく抵抗しないで、そのまま利用するという考えの1つです。*図-7は「筏と沢流し」という本にある伊南川、只見川からの流木の経路です。

 昔は材木を若松に持ってくるということが不可能だったので、津川まで真っ直ぐ行って、新潟の方にこの材木を送っていた。これが只見川での流木、筏流しです。同様に、大川を利用して材木を材木町まで送り、引き上げて用材にしていたのが、大川の材木流し、筏流しである。

 ところが、案外わかっていないことの1つに薪流しがある。私は会津若松史研究の創刊号に「若松城下への熱エネルギー:薪の供給についての考察」というものを書いたが、城下町というのは米と水さえあれば、あるいは住宅があれば住めると思っている人が多いのか、熱エネルギーの供給については研究が全然なされていない。しかし、熱エネルギーがなければ生活ができないわけで、全国の城下町の人口が伸びない原因というのは、薪がコンスタントに供給できないためではないかと私は考えている。

 また、南山ルートというのは大川ルートであり、これは田島や下郷の山奥から薪を持ってきて、雨屋、大川を流す。だいたい春の雪代の時に流しており、大川の資料や古文書で見ると約4割のロスである。一方、猪苗代・大寺・藤原ルートは若松に薪を送った最大のコースで、磐梯山の裏側のフツネ堰から持ってきて、大寺堰を通って、日橋川は樋で渡して、藤原まで運ぶ。そこからは馬で城下町に運ぶというルートである。(*図-8)

 日中流しというものが有名だが、北方の奥の日中から木を切り出して、日中を流し、遠田堰という堰を作り、塩川まで持って行き、そこから馬で運ぶというものである。これは、ほとんど藩の山奉行が管理をしており、侍の利用する薪とされたようだ。当時の侍人口は、会津若松城下に3,000戸の侍の家があり、郭内には上級武士と下級武士を合わせて450軒、あとの2,500軒は周辺の町に混住していたり、半兵衛町のように侍だけが生活しているような所に住んでいたりした。侍人口が約1万4~5千人で、町人口が1万4,5千人~2万人である。そこでは熱エネルギーの供給のために薪が必要であり、河川の利用により常時コンスタントに運ぶことが可能であった。今、門前堰とか、末堰というものがあるが、あれは大川から薪を運んだり、材木を運んだりするために灌漑用水と共用するような形で開削された当時の堰です。

下野街道の上米塚村渡し場略図

*図-5 下野街道の上米塚村渡し場略図

阿久津・黒羽海岸から舟運による江戸へのコース略図(木戸川・那阿川・利根川・江戸川舟運)

*図-6 阿久津・黒羽海岸から
舟運による江戸へのコース略図
(木戸川・那阿川・利根川・江戸川舟運)

筏と沢流し

*図-7 筏と沢流し

猪苗代・大寺・藤原ルートと南山ルート(大川ルート)

*図-8 猪苗代・大寺・藤原ルートと
南山ルート(大川ルート)

おわりに

 いろいろ話したいことはあるが、昔から川の利用が人間生活のために絶対必要であったということです。

上に戻る