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信濃川Q&Aミニ知識

信濃川の豆知識

川と文明

古代から文明は川の近くに発達してきました。
エジプト文明はナイル川。メソポタミア文明はチグリス・ユーフラテス川。インド文明はインダス川のほとりに発達しました。
川にはたくさんの魚がいて人々の食料となり、肥沃な土砂を運んできて豊かな農作物を育てるとともに、人やものを運ぶ交通路ともなり、川は文明を育み、人々は川と密接に関わってきました。

信濃川流域に発達した古代文化

信濃川流域では、約2万年前の旧石器時代から古墳時代に至るまでの人々が生活したことが分かるたくさんの遺跡が発掘され、出土しています。
遺跡からは、火焔(かえん)土器が出土し、信濃川水系が発祥地とされています。
信濃川の上・中流域の縄文時代の集落は、なだらかな大地にあり、周囲には落葉樹林が繁り、近くには小川がながれ、眼下には信濃川が見渡せます。川にはサケやマスが群れをなして泳ぎ、落葉樹林には、イノシシ、シカ、カモシカ、ツキノワグマなどが生息していました。

ツツガ虫との闘い

信濃川の中州や寄州にある島畑は、洪水が起こらなければ他の土地よりも2~3割の増収する肥沃な土地でした。
しかし、信濃川の中州や寄州は、ツツガ虫という恐ろしい虫が生息する場所でもあります。ツツガ虫に刺されると、発熱、頭痛、発疹が現れ、手当てが遅れれば死に至ることもありました。農作業中に刺されて、手当てが遅れて亡くなった方も少なくありません。人々は、命を落とす危険にさらされながらも畑を耕し続けました。

川の等級について

橋の近くなどに河川名を表示した看板立っていますね。看板を良く見ると、河川名と一緒に一級河川や二級河川と書かれているのを見たことのある方が多いと思います。この河川の等級は何を表すのでしょうか。
河川には、一級河川と二級河川があります。これは、法律上の分類で、河川法に定められています。河川の等級は、河川を管理する担当がどこであるかを示すもので、一級河川は国土交通大臣、二級河川は都道府県知事の管理です。
ちなみに信濃川は一級河川ですので、国土交通大臣の管理です。

町名の由来~燕市分水地区(旧分水町)~

燕市分水地区の由来は、大河津分水の分岐点に位置することからつけられた名前です。
この地域は、地蔵堂町、島上町、国上村の一町二村に分かれていました。しかし、昭和29年9月に交付された町村合併促進法基づき、昭和29年11月3日にこの一町二村を合併し、「分水町」となりました。
平成18年3月20日は燕市、吉田町、分水町が合併して新しい燕市になりましたが、今も燕市分水○○町といった町名が残っています。
地区名からも、大河津分水が地区の大きな名所と分かりますが、それ以外にも国上山や良寛修行地など数々の名所があります。大河津分水を訪れた際には、他の名所も巡ってみてはいかがでしょうか。

日本一の穀倉地帯

現在、新潟県は日本一の米王国と呼ばれていますが、かつては「越後のとりまたぎ米」(あまりに味が悪い為に、鳥もまたいでとおる)と酷評されていました。今でこそ豊かな穀倉地帯が広がる新潟県ですが、治水工事や新田開発の進む以前は何度となく洪水や冷害に襲われ、米がろくに収穫できない土地でした。
そんな中、明治26年にシカゴで開催された「万国博覧会」で南魚沼郡塩沢村吉里(現塩沢町)の精米組合が出品した米が「最高の品質である」との評価を受けました。この一件を契機に新潟県では新品種開発が盛んになり、「コシヒカリ」が開発されました。「越後のとりまたぎ米」は人々の努力により、いまでは「日本一」と称されています。

横田切れ

数々の水害が襲った越後平野ですが、その中で有名なものの一つが明治29年(1896年)に襲った「横田切れ」です。「切れ」というのは堤防が切れたという意味で、横田村(現在の燕市横田)の堤防が切れたということです。
7月21日、降り続く長雨によって増水した信濃川は各地の堤防を崩しはじめ、翌22日には横田の堤防を切りました。あふれ出た水で西蒲原郡をはじめ、新潟市までもが泥海(どろうみ)となりました。
今でも新潟市西区槇尾の曹洞宗宝光院の本堂の柱には、そのとき水に浸かった後が残っています。この柱は「考える柱」と呼ばれ、信濃川の歴史について考える資料となっています。



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