稗田山崩れ100年

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稗田山崩れとは?

 明治44年(1911)8月8日に現在の小谷村にある姫川左支川・浦川の上流部の稗田山で大規模な山体崩壊が発生し、浦川沿いに流下した土砂は、浦川の石坂地区の川沿いの下通り3戸17人、姫川合流点の長瀬地区の1戸5人、富山から材木運搬の仕事をしていた1名合計23名が押し寄せた土石流の犠牲となりました。土砂は姫川本川を河道閉塞し、上流側に「長瀬湖」と呼ばれた湖が形成されました。湖の端部は3km上流の下里瀬集落まで達し、43戸が浸水したと記録にあります。その3日後の11日には北城・南小谷の住民が排水路を開き、湛水位をわずかに下げることができたため下里瀬集落等は漸次引水しました。一方、上流から流れ下った濁流は下流の来馬河原集落に流れ込み、役場・郵便局・駐在所をはじめ多くの民家や水田を埋めてしまいました。

 翌明治45年(1912)4月26日に2回目の崩壊が、同年5月4日には3回目の崩壊が発生しました。そして7月21日からの豪雨で22日に天然ダム(長瀬湖)は完全に決壊し、来馬河原全面を濁流が襲い、わずかに残っていた人家も流失してしまいました。

稗田山とは?

正面奥、稗田山。土砂が浦川を埋め尽くしている。

 

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