WHAT IS八十里越とは
・八十里越の歴史
語り継がれた歴史の面影をいまに伝える八十里越
- 「八十里越」の由来は諸説あります。「壬寅随筆」や「嵐渓史」には、困難な山道なので、一里を十里にあてて八十里越と呼んだとあります。
- 越後山脈と帝釈山脈の急峻な峰々に囲まれた南会津地域にとって、「八十里越」は越後に通じる重要な道路であり、文献によると、戦国時代に越後・岩代両国間の交流が確認されています。
- この八十里越を利用して、南会津地域では、食塩・魚類・鉄製品などの生活用品を越後から移入し、また、ここから繊維原料、林産物、労働力などを越後へ送り出していました。
- このように、中越地方と南会津地方は深い依存関係で結ばれ、経済的・人的交流は明治末期まで続きました。
自動車交通時代に取り残された八十里越
- 大正3年に岩越線(現在の磐越西線)が全通し、物資や商品の輸送が八十里越から鉄道へと移行し、八十里越は衰退しました。
今日に至るまで八十里越の整備は遅々として進まず、現在では通行も不可能な「けもの道」の様相を呈するまでに荒廃してしまいました。
八十里越略年表
西暦(年号)
主な出来事
1180年(治承4年)
高倉宮以仁王の八十里越え伝説。
1545年(天文14年)
長尾景虎諸国漫遊後、八十里越にて栃尾へ帰る。
1641年(寛永18年頃)
この頃、奥会津で生産された馬が八十里越で越後におくられる。
また、会津の鋸、鉈などが八十里越で中越地方に伝授する。
また、会津の鋸、鉈などが八十里越で中越地方に伝授する。
1675年(延宝3年)
中越地方大飢饉、子供たちが奥会津の村々で助けられる。
1784年(天明4年)
凶作による南山地方の窮民を救済する越後米干俵が八十里越で会津に運ばれる。
1841年(天保12年)
田島代官平岡文次郎が八十里越開削の必要性を説く。
1843年(天保14年)
8・9月の2ヶ月をかけて、越後及び会津側とも八十里越の大改修を終える。
1868年(慶応4年)
- 1月
- 鳥羽・伏見の戦、世にいう「戊辰戦争」が起こる。
- 5月
- 長岡落城。長岡藩主父子、婦女子、家臣団が八十里越で会津に退く。
- 8月
- 奥州諸藩及び長岡藩士家族等5,000人以上と河井継之助が八十里越を越える。
1873年(明治6年)
八十里越の改修に着手したが、道路としての体裁を整えるまでには至らなかった。
1876年(明治9年)
「八十里峠新道之義二付伺書」の上申書を福島県関係者より県令に提出される。
1878年(明治11年)
吉ヶ平、遅場、葎谷の三集落が新線反対を唱え、旧八十里越の修復請願を行う。
1881年(明治14年)
福島県は、2,700円の工事費を背景に、八十里越新線の「中道」を開削するが、破損が相次ぎ、新八十里越「富貴平線(大江~富貴平~遅沢~叶津)」が提案される。
1889年(明治22年)
新八十里越「富貴平線」の開削は工事困難を理由に中止される。
新潟県側では旧線の「木ノ根線」を部分改修し、ルートを叶津~遅沢~化物野地~松ヶ崎~県境木ノ根~田代平~小松横手~鞍掛峠~空堀~吉ヶ平とする「木ノ根線(新道)」を提案する。
新潟県側では旧線の「木ノ根線」を部分改修し、ルートを叶津~遅沢~化物野地~松ヶ崎~県境木ノ根~田代平~小松横手~鞍掛峠~空堀~吉ヶ平とする「木ノ根線(新道)」を提案する。
1894年(明治27年)
「木ノ根線」は叶津までの新道開削を完了し、ここに新八十里越が完成する。工事はブナの横手付近で「火薬」を使用する。
1900年(明治33年)
この年、八十里越の通行人員18,500人/年(福島県側発表)貨物輸出入5,260個/年 移出の主なものの価格174,303円/年
1914年(大正3年)
岩越鉄道(現在の磐越西線)が全通する。
1926年(大正15年)
未曾有の大雨により八十里越は大被害を受ける。これを契機に鉄道利用が増大する。
1970年(昭和45年)
一般国道289号に昇格。
吉ヶ平が集団離村。八十里越は廃道に近い状態となる。
吉ヶ平が集団離村。八十里越は廃道に近い状態となる。
1971年(昭和46年)
只見線が全通する。
1972年(昭和47年)
八十里越地点開発促進期成同盟会が結成される。
1973年(昭和48年)
国道252号(六十里越)が開通する。
八十里こしぬけ武士の越す峠 河井継之助~戊辰戦争敗走の道

慶応4年5月2日、北陸道を進んだ新政府軍軍監岩村精一郎と長岡藩軍事総督河井継之助らが行った「小千谷会談」の決裂によって奥羽越列藩同盟が生まれ、越後は全面戦争へと発展した。
7月25日、北陸戦線のなかでもっとも激しかったと伝えられる奇襲によって長岡城を奪還したが、29日に新政府軍の反撃に支えきれず落城した。長岡城奪還戦の際、敵弾で足をくだいた河井継之助は、担送されて、見附、文納、葎谷を経て8月3日、吉ヶ平に入った。翌4日、八十里越に向かい、山中で一泊、6日に只見に着くが、会津側では大三尾の上部に短路を開いて協力した。
いまでもその部分は「河井新道」と呼び伝えられ、かすかに痕跡をとどめている。
八十里越を世に知らしめた戊辰戦争を語るとき、多くの人々は河井継之助のいたましさを思う。2度と帰ることのない八十里越は死の道であった。「八十里こしぬけ武士の越す峠」の狂句には、越後の山々を、空を、凝視しながらの悔悟と自嘲をかいまみることができる。
(出典:「八十里越(国道289号)−記録が語る歴史の道−」)


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