滝坂地すべり

地すべりと集落の暮らし

銚子ノ口の「幻の橋」

 江戸時代、米沢や喜多方から越後に行く場合、又は反対の場合どうしても柴崎と野尻の舟場から阿賀川を舟で渡って行かなければなりませんでした。従って、この川に橋を架ければ極めて便利になると考えるのは当然で、川幅のもっとも狭くなる銚子ノ口に目が付けられた訳です。
 文政六年(一八二三年)、三方村(現高郷村)の唐橋新十郎が銚子ノ口に架橋(有料)を出願しましたが、橋が出来れば柴崎の舟場や上、下野尻の宿場が大打撃を受けることから関係者から補償を要求され、断念せざるを得ませんでした。
 その二十九年後の嘉永五年には、誰からも文句の出ない柴崎の舟場から上野尻に「船橋」での架橋を工事費百三十両を借りて願い出、橋銭をもって返済する計画で工事に取りかかりました。しかし完成直前になって大風が吹き、船を繋いであった仮綱が吹き切れ、船十一艘ほか全てが流出してしまい大打撃を受けた訳です。
 百三十両の返済に困った唐橋新十郎は、再度銚子ノ口の架橋願いを藩庁に提出しましたが、恐らくこのたびも執念は実らなかったようです。
 その後、明治二十八年八月、地元の人々によって建設費約三千八百円をもって銚子ノ口架橋の許可願が県令に提出されました。請願者には文政六年の架橋願時に反対した上野尻等の人たちも含まれ、県令はこれを許可し着工となりました。しかし、これまた橋桁を中央で連結した所で落橋し、文政六年以来の悲願はやはり「幻の橋」に終わった訳です。

銚子ノ口刎橋略絵図
銚子ノ口刎橋略絵図
(上野尻・石本雄也家蔵)
銚子ノ口(下流)
銚子ノ口(下流)