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会津盆地のくらし

最終更新日:2007.04.26

会津盆地のくらし

会津をつくった水・土・人

 会津盆地は上流に猪苗代湖があり、広い盆地の中心を貫く阿賀川に四方から水量の多い川が流れ込むため、水の利に恵まれ、土も肥えていました。戦国期にこの地を治めた芦名氏以来、会津は戦略上の重要性とその肥沃な土壌によって、周辺諸国の中心地として発展しました。
 芦名氏の後に入った蒲生氏は約100万石の大大名として、若松に7層の天守閣を持つ鶴ヶ城を築き、若松は「奥州の都」と謳われるほどに発展しました。
 芦名氏、蒲生氏に次いで藩主に就いた保科正之(三代将軍・家光の弟)は、新田開発や産業奨励策などを通して会津藩を発展させました。また、教育の充実や商工業の保護によって町が発展することで、誠実で勤勉な気風、風土が築かれました。保科氏などの大名による農業の奨励もあり、会津盆地では、古くから農業技術の習得も熱心に行われ、貞享元年(1684)に著された「会津農書」は東北地方における優れた農書とされています。
 水と土と人が会津をつくったと言ってもいいかもしれません。

旧河道を利用した新田開発

 明治〜大正時代の地形図を見ると、阿賀川の西側の地域には、「新田」と名のついた地名が南北に続いています。これは昔の阿賀川の河道跡に新田を開発したためにつけられたといわれています。
 阿賀川では、天文5年(1536)の「白髭水」と呼ばれた大洪水により、鶴沼川(昔の阿賀川)の流れが変わり、ほぼ現在の阿賀川の流路に固定されるようになりました。鶴沼川はかつての河道部分が宮川(旧鶴沼川)になりましたが、かなりの部分が河原同然の廃川敷となりました。その面積は1,500haほどあったと推定されています。
 洪水から100年程たった後、会津藩の指導の下、鶴沼川廃川敷(氾濫原)一帯に新田が精力的に開かれるようになりました。『家政実記』によると、寛永20年(1643)から寛文8年(1668)の26年間で約1万500石(1,000ha程)の新田が開発されています。
 これらの新田開発の結果により、幕末における会津地域の耕地面積は2万9千haであったとされ、日本有数の米の産地とされる現在の会津地方と同じく広大な耕地が広がっていたことがわかります。また、江戸末期の日本の人口は現在の約1/4であったとされるのに対し、幕末の会津地方には約20万人(現在約30万人)ものたくさんの人が住み、食べてゆける豊かな地域であったことがわかります。
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江戸期の主な用水路網と「新田」のつく地名の分布
(阿賀川河川事務所資料より作成)

水の町・会津若松と戸ノ口用水

 江戸時代から多くの人が生活してた会津若松を潤す水源として、安定した水の供給のためには猪苗代湖から導水することが切望されていました。そのため、猪苗代湖から水を引いて開墾することを目的として、資金難等で難航しながらも、元禄6年(1693)約31kmの戸ノ口堰が完成し、会津若松まで用水が通じました。
 戸ノ口の水は昔から精米、繭、絹工業に使われたり、御城の水やお薬園の水にも利用されています。また、水路の脇には石段が設けられ、野菜や農機具を洗ったり、風呂の水を汲んだりする洗い場として使われていました。
 現在、非潅漑期には、生活用水、消雪用水、防火用水等にも使われています。
戸ノ口用水の水が引き込まれている御薬園
戸ノ口用水の水が引き込まれている御薬園

水の恵み 〜 酒・味噌・醤油

 会津の伝統的な産業の中に酒・味噌・醤油の生産といった醸造業があります。これは、阿賀川等からの恵まれた灌漑用水、稲作に適した気象条件の好環境下において産出された会津産の良質米と恵まれた天然の地下水によって醸造されたものです。
 会津の酒造りは、保科正之が余剰米を使っての酒造りを奨励したことに始まるともいわれています。
今も根付く会津の伝統産業「酒造り」
今も根付く会津の伝統産業「酒造り」
(会津酒造歴史館提供)

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