加賀藩祖、前田利家が架けたのが最初といわれており、当時は「轟の橋」と呼ばれていたそうです。参勤交代の行列は必ずこの橋を渡っており、重要な役割を果たしていました。明治に入るまでに少なくとも10回以上の修復及び架け替えが行われており、耐久性に劣る木造橋は度々落橋の非運に遭いました。 |
|
明治31年(1898)に架けられた木造橋は、度重なる大洪水を契機に、大正11年12月に現在の永久橋として架け替えられました。3つのアーチで組まれたコンクリート製の造形は落ち着いた雰囲気を醸し出しており、「女川」といわれる浅野川周辺の景観にぴったりマッチしています。昭和41年(1966)までは、橋上に市電が走っていました。 |
|
太平洋戦争で供出された高欄や照明灯を復元するため、平成元年、唐草模様付きの格子高欄、五灯式あんどん型照明を設置しました。また、復刻したレリーフを赤戸室石の側壁に用いるなどして、大正時代の面影を今に取り戻しました。また、橋上にあった電線類を撤去して歩道に埋設させ、周辺の情緒ある街並みとの調和が図られています。 |
|
金沢の伝統芸能の粋を堪能できる「浅の川園遊会」、藩政期の情緒漂う主計町の復活など、浅野川大橋を取り込んだ街づくりの取り組みは、年々活発になっています。それに伴い国の登録有形文化財の指定を受け、その周辺で育まれた歴史や文化を保存継承していこうという機運もますます高まっています。 |