六郎谷奥飛騨の砂防チェック!-⑮

基本解説
  • 現在こうして鉱山の工場や建物が建っているのは、実は土石流の上。
  • 明治32年9月8日、この六郎谷が崩れ、流れ出した土石流が高原川をせき止めて神岡の町が水浸しになった。その時町の人は「船津町、東町は大きな湖になってしまうのではないか」と心配したが、45分後に水を通すことができ、湖になることは何とかまぬがれたという。

→① 六郎谷では、昔は金銀の採掘が行われており、採掘時の選鉱排水を谷に流していたこともあって、当時は木も生えないような荒れた谷だったという。

→② 大正9年11月からこの谷の砂防工事が始まり、昭和2年までに28基の砂防えん堤ができた。現在は工場や病院が建つほどの安全な場所になっている。

→③ 当時は砂防えん堤のほとんどが石積みで造られ、今ではそれらのえん堤に土砂が貯まって、周辺やえん堤の上にまでアカシヤの木が生い茂り、注意しなければ砂防えん堤があるとは気づかないほど自然と一体化している。

さらにもう少し
  • 現在、全国で市町村合併に関する議論が盛んになっており、神岡も平成16年2月に古川町、宮川村、河合村と合併して飛騨市となったところだが、実は100年前に六郎谷の災害があった頃はもっと大きな合併の話があった。