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気象データ 水文データ(信濃川) 記録写真(信濃川)

気象概要
 宝暦7年(1757)に破堤している西蒲原郡分水町横田は、またもや明治29年(1896)に破堤し、濁流は平野部一帯を覆い尽くすように流れ、視察に来た内務大臣に「日本の揚子江だ」と言わしめるほどの泥海となってしまった。
この年は降雨が多かった。四国上空より日本列島を縦断する形で、ごく弱い熱帯低気圧が長野県上空を通過し、さらに梅雨前線の低気圧が通過していった。分水地区でも7月19日ころから激しい雨が降り続きこの事態を招く要因となった。
(河川文化ディスカバーフォーラムin千曲川 基調講演「千曲川の洪水〜豪雨のメカニズム」・信濃川下流30年誌より引用)

天気図
7月19日〜7月23日
当時の気圧の単位は、水銀柱の高さを観測していたため水銀柱ミリメートル(mmHg)が使用されている。
提供:気象庁

等雨量線図