被害概況
寛保2年(1742)年旧暦の7月27日から8月1日まで降り続い
た豪雨は、浅間山地を境に北は千曲川流域、南は荒川・利根川沿いを襲う。
千曲川流域で約2,800人、荒川・利根川流域では6,000人から14,000人(いずれも推定)の尊い人命を奪い、近世以降わが国で最悪の被害を出
した。
最上流の南佐久郡下では、山抜けや地すべりが至る所で発生。
支川ことごとく氾濫し、浸水によって溺死する住民が非常に多く、住家は流出し、食物もない人々が村々にあふれかえった。
上畑村などでは全村が流出し、田口村では4部落のうち3部落が完全に影を失せた。
平賀村、下中込村は大被害を受け、その後亡村した。
北佐久郡下では黒部山が崩壊し、中山道望月宿では民家を過半失い、春日村でも50棟が濁流に呑まれた。
小諸城下にも濁流が押し寄せ、流出・潰れ家42戸、溺死者584人等の被害が出た。
また、千曲川流域では建物の被害は約6,300戸、石高被害は約115,000石に及び、災害後も田畑が荒地のまま放置される等、藩の財政難は明治まで
続いた。
(寛保2年の千曲川大洪水「戌の満水」を歩く
発行:信濃毎日新聞社・信濃川百年史より引用) |
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