徹底した性格

道を歩いていても、暇さえあれば新工法について考え、黒部川で洪水が発生すれば、氏の考案した水制、根固の効用(機能)をいち早く観察に出かけるというほど、何事も徹底した性格の橋本氏。
研究のみならず、趣味の将棋も始めたら、時のたつのも忘れる。
家庭にあっては、上半身裸で鍬を手に畑仕事に精を出す日々であったが、これも半端では済まない。朝は出勤前に、夜は月あかりで、あるいは電灯をともして耕すという熱のいれようであった。戦後、物のない時代のこと、自給自足を旨としていた様であるが、必要というよりは好きでやり始めたら止まらない徹底的な性格の現れであろう。
野菜づくりといい、将棋といい、この人の生きる姿勢は常に前向きで、始めたらとことん熱中する凝り性なのがわかる。

名著「新河川工法」上梓までのいきさつ

橋本氏は数多くの発明を生み出したが、これらは意外にもほとんどが世間には公表されていないものだった。研究への評価は高く、論文発表を望む声は多かったが、「そんな暇があれば一つでも多く新しい工法を考案した方がましだ」と拒み続けていたのである。
しかし昭和28年、北陸の急流河川を視察した京大の石原藤次郎教授が論文執筆を強く勧め、これに応えてようやく念願の論文が世に送り出された。
論文は、昭和31年に名著「新河川工法」として上梓される。あとがきによれば、

「当初は一年もかかれば十分と思っていたが、いよいよ書きはじめてみると、これまで実施したきた工法は少しでも改良したくなるし、また少しでも新しい良い工法をと欲が出て、2年半も費やした」

とあり、凝り性の性格がみられる。

発明秘話

急流河川工法に画期的な革命をもたらした橋本氏の数々の根固ブロック。発明のヒントは思わぬところに潜んでいた。
昭和25年正月、年始の客相手に将棋をさしながら、傍らに火鉢ををおいて餅を焼いていた橋本氏は何かを考えている様子だったが、餅が金網の上でふっくらふくれあがるのを見て、そこから十字ブロックの形を発想し、さらに金網の線形を見てダブルY型を考えだしたという。つまり、金網が鉄筋に見え、餅がブロックに見えたわけだが、当時あらゆるものがブロックに見えたといわれる橋本氏らしいエピソードである。

業績

橋本氏の数々の業績は、戦後の河川事業のあるべき方向を決定づけた、その時々の英断と地道な研究活動に裏付けされている。
まずタワーエキスカベータの導入は、戦後間もない当時としては、予算的に見ても大胆とも言える英断を下した訳であるが、先をしっかりと見据えた卓見は賞賛に値するものであろう。
また橋本工法と呼ばれている水制、護岸など多方面での新しい発明は、100以上にも及ぶ。なかでも画期的なのが、異形ブロックの開発であろう。H型、Y型を振り出しに工夫改良されていった異形ブロックは、十字ブロックの開発により大きな成果をあげ、日本全国で使われている。これは、たゆまざる日々の研鑽のたまものであり、急流河川における根固工を大きく変えていく画期的なものとなった。

戦後の河川事業に大きな行政を残した橋本氏であるが、これら橋本工法の底流に流れていたものは、川を水源から海までひとつものとしてとらえる「水系一貫」をベースに、砂防と改修が互いに有効に生かされるべきであること、そして緩流と急流で川はこんなにも違うのかというかつての驚きに端を発した次のような考えではなかったか。

「川は生きているものだ。その1つ 1つとっても全部性質が違う。同じ工法の型にはめることはできない。ちょうど工法は薬、技術者は医者の立場にある。どんないい薬でも医者の上手な調剤がなければ患者の病気は治らない。このサジ加減がむずかしいのです。」(昭和31年5月31日、中部日本新聞の記事より)

夫人からの手紙

やりだしたら、寝食を忘れて没入する橋本氏が思いのままに動けたのは、それを陰で支える賢夫人の存在があったからである。ここに、橋本氏の没後、夫人が氏の後輩にあてて書いた手紙がある。
好きだった将棋は駒を自分で彫るという凝り性ぶりを発揮し、全国の河川をめぐるのを楽しみにしていたことなど、自分の好きなことを一所懸命楽しんだ橋本氏の晩年の姿がよくわかる。

さわやかな5月となりまして若葉の美しい頃となりました。

先般、主人が亡くなりました際には、ご心情溢れる、お手紙を頂きまして涙ながらに読ませて頂きました。早速御礼を申し上げたく存じましたのに、その後、何彼と取混んでしまいまして心に任せませず、49日が過ぎましたら早速と存じて居り乍ら早1カ月近く経とうとして居ります。御無沙汰申し上げてしまい、何卒お許し下さいませ。

生前は長い間、本当に、お世話になりまして御礼の申し上げ様もございません。又、病中には、度度、御心篭るお見舞いを頂戴致しまして、厚く御礼を申し上げます。40年に退職致しましてからは、やり度い事も一杯ございましたし、又、時間に捕らわれないで、全国の河川を見せて頂くのを何よりの楽しみに致して居りましたので、その際には、又、お目にかゝる機会にも恵まれまして、好きな将棋のお相手もさせて頂けるものと、思って居りました事と存じますけれど、此の世では、とうとうその願いは叶えられずにしまいました事を残念に存じますが同じ道をお励み下さる御方々がそれぞれの場所で、御精進遊ばして居てくださいます事を嬉しく存じております。霊がございますものならば、却って不自由だった肉体を離れまして、あちこちの現場を拝見させて頂くのではないかと、思って見たりも致します。

退職致します前1年ばかりから始めて居りました謝恩の為に作って居りました将棋の駒は、大畑様には差上げて居りますでございましょうか、まだ10人様程度差上げ度いよう申して居りましたのに発病致してしまいましたので、一寸お伺い致します。未完成のものもございまして、一組は、最後の旅に出す時持たせてやりました。駒を彫る刀から作って居りましたので、その刀も何本かございますので、若し駒が御手許に入って居りませんでしたら、それ等のものでも、又、何時かの折りに差上げ度いと存じます。亡くなりましてもう大分、日も経ち、お骨になりました事実を見て、居りましても、何となくまだ何処かで生きて居る様な気がしてなりません。子供達は皆それぞれに成人致しましたけれど末子が丁度今春学校を出まして、名古屋で勤務致す事になり共に生活致して居ります。

誠に失礼かと存じましたけれど、主人が発病直前まで愛用して居りましたネクタイを送らせて頂きます。お使い下さいますれば幸いと存じます。どうぞくれぐれもご自愛下さいます様お祈り申し上げます。

かし古

5月5日