1. トップページ
  2. 治水
  3. > 梯川あれこれ

梯川あれこれ

旧梯川大橋

旧梯川大橋
旧梯川大橋

 平安の昔より、安宅の関があった浜街道、また山の麓に沿って山手街道がありましたが、平野部が開けるにつれその二つの街道の中ほどに、戦国時代に平野を横切る新しい街道がつくられました。これが北国街道で、この頃梯川には橋は無く、街道はこの梯大橋の付近で渡舟で渡っていました。

 初めて橋が架けられたのは藩政時代当初のようで、舟を並べて板を渡した舟橋でした。舟橋は出水の時は橋板を増し、平水には橋板を増し、平水には橋板を減じ、洪水を予見した時は橋板を外して舟の流出を防ぎました。このように橋板を架けたり外したりしたので、梯橋(梯)と名付けられたようです。

 また、川の名もそれまで大川と言っていたのですが、梯と呼ばれるようになりました。藩政時代には外に橋を架けることは禁止され、長い間梯川で唯一の橋として、人々の往来で賑わいました。

 「太鼓橋」の愛称で市民に親しまれていた旧橋は、梯川改修により、平成7年に今の橋に架け替えられました。

水運の歴史

浜田帰帆
浜田帰帆 (宮誠而氏写真集)

 日本海は、貢米や諸物資の輸送、並びに渤海国との通交もあって、海上貿易が古くから発達していました。

 北前船は、大坂と蝦夷(北海道)とのあいだを下関経由で往復し、日本海沿岸各地に寄港しながら品物を売り買いして利益をあげた買積船で、梯川河口では、安宅湊を拠港にして、利常の奨励した産物が蝦夷や大坂方面に運ばれていました。

 また、安宅港から糧荷をはこんだ帆かけ舟は、藩政の中頃まで泥町(現在の大川町)に荷揚げされていましたが、中頃以来は浜田で荷揚げが行われました。

 安宅湊のあたりには、米谷半平や松村伊右衛門などの北前船主、木下傳二らの廻船問屋が軒を並べ、航路の安全を祈願した船絵馬が湊近くの安宅住吉神社に多く奉納されていました。

 明治31年に北陸本線が開通すると海運業は急速に衰退、漁業も沿岸漁業中心であったこともあり漁獲高が減少し賑わいは過去のものとなった。