降雨・降雪による災害について

外ヶ谷(そでがたに)の大崩壊

外ヶ谷の大崩壊

外ヶ谷右岸崩壊現場 外ヶ谷左岸崩壊と池

明治22(1889)年7月24日、右岸山腹が大崩壊した外ヶ谷では、昭和28(1953)年7月23日夜半、新たに左岸山腹が大崩壊しました。崩壊土砂は外ヶ谷を堰き止め、翌24日に決壊して、大土石流が発生しました。この時の土石流で、学童3名の命が奪われ、下流の外ヶ谷牧場の牛10頭も巻き込まれました。この時の山腹崩壊土砂は500万m3と推定され、土砂流出防止のために外ヶ谷の砂防計画が見直されました。この災害を契機に、翌29年5月、神通川水系砂防工事事務所が設置されました。

宮川流域の災害

宮川流域の災害

飛騨市宮川町桑谷の流出土砂氾濫状況

大正3年(1914)8月13日、飛騨市宮川町(当時:吉城郡坂下村)では、塩屋大谷、打保上の谷、打保下の谷、戸谷大谷、桑野大谷、小豆沢大谷、小豆沢滝谷、洞谷から、土砂が大量に流出しました。これらの土砂が、宮川を堰止めたため、村は一面湖沼と化しました。洪水や土砂災害によって町内では、死者36名、住家流失49戸、全壊7戸、半壊2戸、浸水73戸、田畑流失74.3ha等の大きな被害が出ました。この災害を契機として、大正8年(1919)7月から昭和5年(1930)9月まで、宮川流域では、直轄砂防事業が実施されました。

高原川流域の災害

大正9年(1920)6月26~28日にかけて、飛騨地方は大雨に見舞われました。28日午前8時頃外ヶ谷・足洗谷で土石流が発生しました。高山市上宝町蒲田では、建物13棟、田畑、貯蔵物が全て流失し、蒲田温泉が消滅したため、集落は移転を余儀なくされました。また、飛騨市神岡町船津では、高原川の土石流によって、死者17名、家屋倒壊3戸、半壊77戸、浸水290戸、流失47戸等の大きな被害が出ました。この災害を契機として高原川流域では直轄砂防事業が開始されました。

洞谷(ほらだに)災害

昭和54年(1979)8月22日、集中豪雨により、22日午前7時50分頃、上宝村(現高山市奥飛騨温泉郷)栃尾の洞谷最上流部(標高約1950m地点)が崩壊して、土石流が発生しました。巨大岩石を含む約7万m3の土砂が、瞬時に栃尾温泉街を直撃しました。この崩壊は、県道槍ヶ岳公園線を分断して、道路上に高さ約8mの土砂を堆積させました。この時、洞谷直下の橋梁を乗用車で通行中の観光客3名が犠牲となりました。 洞谷(ほらだに)災害

宮川流域の災害

平成11年(1999)9月14日から15日にかけて台風に刺激された秋雨前線による集中豪雨によって飛騨市古川町、宮川町、河合町では土砂災害が多発しました。また、平成16年(2004)10月20日には台風23号の通過に伴い非常に激しい雨が降り、高山市などでは土砂災害が発生しました。この災害では大量の流木も発生しています。

  • 写真1

    飛騨市河合町二ツ屋谷の土石流
    (平成11年(1999)岐阜県資料)

  • 写真2

    飛騨市古川町における被災状況
    (平成11年(1999)岐阜県資料)

3.27左俣谷雪崩災害

平成12年(2000)3月27日、午前11時50分頃、上宝村(現高山市)の蒲田川支川左俣谷穴毛谷上流で、推定166万m3に達する日本最大級の雪崩が発生しました。この雪崩で、北陸地方建設局発注の工事現場内(工事名:左俣谷災害関連緊急砂防工事)の林道除雪作業のため入山していた、男性2名が犠牲になりました。雪崩の発生源は、標高約2,700m付近、幅約800m、長さ約1,000mであり、堆積地点は、標高約1,150m付近、幅約130m、長さ約750mでした。発生源から堆積地点最下流端までの距離は、約3,900mに及びました。現在、高山市奥飛騨温泉郷神坂に慰霊碑が建立されています。

左俣谷第1砂防ダム直下

林道にのりあげた雪崩

監視カメラ映像が捉えた雪崩
(平成12年(2000)3月27日午前11時44分54秒)

左俣谷雪崩災害(撮影:平成12年(2000)3月31日)