魚野川と破間川の合流する四日町は、昔から鮭漁がさかんであった。古くは鎌倉時代に源頼朝に生鮭を献上したとの伝説があり、戦国時代には上杉入道可諄(顕定)に子籠鮭一尺を献呈した礼状が伝存している。江戸初期には国主堀左衛門督秀治が当地の初鮭を江戸幕府ヘ献上したという。
また当地は魚野川が激突して深さ数丈の渕がある。西強之渕と呼ばれ、上流は強之瀬と称する激流で、絶好の漁場であったという。
ある秋のこと鮭漁の最盛期となり、漁師達は次々に居繰船二嫂を上流から疾走させる。しかし、渕の上流の地点で、居繰綱がことごとく断ち切られる。まことに不審である。水底に障害物があるらしい。若者達が上流より潜行すること五六人、驚くべきことに巨大な鮭が激流に遊泳し、周辺に其の他の鮭が群集しているのが望見された。
幾分かの怖れはあったが、年に一度の鮭漁を中止することもできない。勇をふるい再三上流より潜行して探査すると、巨大な石に初秋の鮎漁に使用した瀬張の〆縄等がからみつき、大鮭のように見えていたことが確認された。漁師達は惣出で激流より其の石を引きあげると、不思議なことに鮭の頭に酷似している。人々は其の石を鎮守諏訪神社の境内に安置し、山上の鮭の明神と共に豊漁を祈願したという。その秋はまれにみる大量であったという。
鮭の頭の形をした鮭明神、祀りに供える踊り焼、川鱒を捕らえるツケビキ、保存食の鱒ずしは、魚野川・破間川に伝わる食文化の証である。
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