大河津分水路の歴史

大河津分水路の歴史

大河津分水工事は、明治42年(1909)に本格的に始まり、13年の歳月をかけて、大正11年(1922)通水しました。

年号 できこと
享保年間(1716~1735) 寺泊の本間屋数右衛門・河合某らが大河津分水工事を幕府に請願。
天保13年(1842) 幕府は分水計画の調査を実施。
明治元年(1868) 大水害発生。
明治2年(1869) 田沢与一郎らが大河津分水工事を越後府に請願。
大河津分水工事(第1期)を行うことが決定。翌年、起工式を挙行し開削工事を開始。
明治5年(1872) 渡辺梯輔らによる大河津分水工事反対などを掲げた騒動が起こる。
明治8年(1875) 大河津分水工事を中止。
明治14年(1881) 田沢与一郎、実入らが白根町(現在の新潟市南区)に信濃川治水会社を設立。大河津分水工事のための運動が盛んになり、このころから新潟県議会は毎年のように政府に大河津分水工事を行うよう働きかけた。
明治17年(1884) 信濃川河身改修工事に着手。
明治29年(1896) 7月22日 大水害「横田切れ」が発生。
明治40年(1907) 政府は大河津分水工事を含む信濃川改良工事を決定。同年、工事着手。
明治42年(1909) 7月5日 大河津分水工事(第2期)起工式。
大正4年(1915) 分水路の山間部で第1回目の地すべり発生。
大正8年(1919) 分水路の山間部で第2回目の地すべり発生。
大正11年(1922) 8月25日 大河津分水路通水。
大正13年(1924) 3月23日 大河津分水工事竣工式。
11月、分水路の山間部で第3回目の地すべり発生。
昭和2年(1927) 6月24日 自在堰が陥没し、大きな被害をうける。12月より補修工事に着手。
洗掘を防止するための第二床固を含めた2基の床固・4基の床留の建設に着手。
昭和6年(1931) 6月20日 補修工事竣工式。可動堰、2基の床固、4基の床留完成。
昭和13年(1938) 洪水による第二床固直下の洗掘が進んだため、第二床固補強工事が行われる。以後昭和39年まで数回にわたりコンクリート打設、ブロック沈設などの補強工事を繰り返す。
昭和41年(1966) 第二床固副堰堤建設工事に着手。
昭和47年(1972) 第二床固副堰堤完成。
昭和57年(1982) 9月13日 大河津で観測史上最高水位を記録。洗堰漏水。
昭和63年(1988) 第二床固バッフルピア建設に着手。
平成2年(1990) 第二床固バッフルピア完成。
平成4年(1992) 大河津洗堰改築事業に着手。
平成5年(1993) 分水路の山間部で地すべり発生。
平成8年(1996) 新洗堰本体工事着手。
平成12年(2000) 5月29日 新洗堰通水。
平成14年(2002) 大河津洗堰改築事業竣工。
旧洗堰が国の登録有形文化財に登録される。
平成15年(2003) 大河津可動堰改築事業に着手。
平成18年(2006) 9月30日 大河津可動堰改築工事起工式。
平成23年(2011) 11月23日 新可動堰通水。
平成26年(2014) 大河津可動堰改築事業竣工。
平成27年(2015) 大河津分水路の改修事業に着手。
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