あゆみHISTORY

越後のなりたち

 越後平野は長い年月をかけて信濃川と阿賀野川の運ぶ土砂がたまったことにより形成されました。もともと海面だった場所は低平地のため水はけが悪いため、放水路や分水路を設けて排水する必要がありました。
 1910年(明治43年)、関屋坂井輪郷水利組合が関屋掘割を海まで開通させましたが、本格的に通水しないうちに放置され、埋まってしまいました。新潟市中央区堀割町の地名はその名残です。


関屋分水事業はじまる

 1960年(昭和35年)頃新潟市内では地盤沈下による浸水被害が目立つようになりました。1963年(昭和38年)、新潟市関屋団九郎より競馬場西側を通り関屋浜に至る延長1.8kmの新水路を開削して、信濃川の全流量を直接日本海側へ放流し、新潟市内の信濃川を埋め立てることにより、新潟市を洪水から守ることと、新潟港にたまる土砂を減らすこととを主な目的として関屋分水路事業は動き出しました。 


町ひとつそっくり大移動

  分水路を通す一帯は、新潟市の中心部から西方約3.1km、郊外の住宅地として急速に発展していた地域であるため、移転を必要とする家屋は693戸(870世帯)にも及びました。
 病院、工場、商店、幼稚園、市営住宅、民営アパー ト、それに個人住宅を含めた大規模な移転となり、ひとつの町がそっくり移動する感さえありました。その多くは近くの関屋競馬場跡地に移り住み、「信濃町」「文京町」という新しい町が生まれたのです。 


新潟地震で事業は白紙に

 1964年(昭和39年)3月、新潟県は関屋分水路事業全体計画の許可を受け、関屋分水路事業実施に関する基本協定を建設省と締結し、国庫補助による県事業として工事に着手しました。ところが、同年6月16日の新潟地震によって関屋分水路事業は一旦白紙に戻りました。
 しかし、官民あげての猛運動により、信濃川は一級河川に指定され、関屋分水路工事は国の直轄事業として着工されることとなりました。


関屋分水と日本海が結ばれる

 関屋分水路の長さは約1.8km、川幅は約240~290m。この大きな人工の川を7年かかって掘り上げ、1971年(昭和46年)新潟大堰竣工、1972年(昭和47年)に日本海へ通水しました。掘削した土砂は新潟バイパスなどの盛土に利用され、新潟市の発展を支えた都市基盤の整備と調整を図られました。
 1974年(昭和49年)には信濃川水門が完成しました。


良好な水辺環境の創出

 関屋分水路は、信濃川下流区間の洪水を防ぐこと加え、緩やかな斜面をもつ堤防「やすらぎ堤」の整備を可能にし、「遊歩道」や「やすらぎ堤緑地」などの周辺整備とも連携して「水都新潟」のシンボル的な空間となっています。
 近年では、「ミズベリングやすらぎ堤」として、2016年(平成28年)よりオープンカフェ、バーベキュー、ビアガーデンなどの飲食店等が出店し、信濃川やすらぎ堤を中心とした水辺の賑わいと経済効果の創出空間としても活用されています。