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ビッグプロジェクト 立山砂防

立山砂防

およそ2億㎥の崩壊土砂が今も残る立山カルデラ

日本でも有数の急流河川で知られる常願寺川。その上流には、立山火山の火口周辺が激しい侵食作用によって拡大してできた東西6.5km、南北4.5kmに及ぶ巨大なくぼ地「立山カルデラ」があります。安政5(1858)年2月26日(新暦4月9日)、マグニチュード7と推定される飛越地震が立山連峰を襲いました。この地震によりカルデラ内の斜面が大崩壊(鳶崩れ)を起こし、崩れた土砂が川をせき止めました。3月10日(同4月22日)川をせき止めた土砂が決壊し1回目の土石流が発生、続いて4月26日(同6月7日)さらに大規模に決壊し2回目の土石流が発生、富山平野にはん濫し死者140名、負傷者8,945名の未曾有の被害をもたらしました。

また、この土砂流出により常願寺川は類い希な天井川となりました。この時の崩壊した土砂は約4.1億m2。その半分、約2億m2もの土砂がカルデラ内に残っています。この土砂量は、富山平野一帯を約2mの厚さで覆うほどの量で、県都・富山市などに大災害をもたらす危険性をはらんでいます。

立山カルデラの内部写真 立山カルデラの内部

繰り返される被害で、直轄工事へ

湯川第一号砂防えん堤写真 大正11年7月破壊した湯川第一号砂防えん堤
(現在の白岩砂防えん堤)

明治24(1891)年の洪水を契機に常願寺川の改修工事が始まりますが、毎年のように洪水は繰り返されます。洪水を防ぐには上流の土砂の発生を抑えることが重要であるとの声が高まり、同39(1906)年、富山県は砂防事業に着手します。

ところが、築造した砂防えん堤の多くは頻発する洪水で被災し、現在の白岩砂防えん堤の位置に施工中であった湯川第一号砂防えん堤も完成目前だった大正11(1922)年、洪水により壊滅的な被害を受けました。

この災害をきっかけに国の直轄工事を望む声が高まり、県の要請を受けた内務省土木局は直轄工事に踏み切るか否かの判断をするため、のちに「日本砂防の父」と呼ばれることになる「赤木正雄」を現地へ派遣しました。

技術者のゆるぎない信念が、威圧する土砂をせき止めた

大正14(1925)年7月、富山の地に入った赤木は、常願寺川の下流から上流までを自らの足でつぶさに点検しました。

そして、その現状を見て、何としても直轄工事にしなければこの地の人々を守れないと思い、国にその必要性を報告したのです。

翌15(1926)年、国の直轄工事となると、赤木は内務省新潟土木事務所立山砂防工事事務所(現 国土交通省北陸地方整備局立山砂防事務所)の初代所長として赴任。そして、毎日のように現場を調査し、白岩砂防えん堤をカルデラ内の土砂移動を防ぐ砂防工事の基幹えん堤と位置づけ、順次、幾重もの砂防えん堤によって、流域の荒廃を治めるという構想を立てました。

しかし、その実現には多額の予算が必要でした。難色を示す声に囲まれるなか、「日本における治水の根本は砂防にある」と砂防の重要性を説き、着工承認を得たのです。その後、白岩砂防えん堤の完成のめどが立つ昭和5(1930)年10月まで現場で直接指揮を執り続けました。

立山カルデラ写真 立山カルデラ

人々の暮らしを守る砂防工事。その大志は今も脈々と

立山の砂防事業は、赤木の構想を基本に進められ、昭和14(1939)年に基幹えん堤である白岩砂防えん堤が完成。

その高さは63mと日本一で、現在では7基の副えん堤を合わせ高さ108mの偉容を誇ります。

白岩砂防えん堤は、その後施工された砂防えん堤とともに、カルデラからの土砂流出を抑制し、今もなお下流の富山平野を土砂災害や洪水から守り続けています。

赤木によって培われた砂防技術は、荒廃山地、急流河川を数多く有する日本で大きく発展、その技術は世界に広まり、今日では「SABO」は世界共通の言葉となっています。

白岩砂防えん堤 白岩砂防えん堤 平成11年6月
国の登録有形文化財に登録
赤木正雄
赤木正雄(あかぎ・まさお)

明治20(1887)年~昭和47(1972)年。兵庫県出身。東京帝国大学農学部林業科を卒業後、内務省土木局に入省。
農商務省山林局、京都帝大講師、砂防の最新技術を学ぶためオーストリアへ留学の後、大正14年内務省に復職し、翌年初代の立山砂防事務所所長に就任。立山砂防は日本における砂防事業の手本となる。国内の代表的な砂防の現場のほとんどは赤木が指揮を取った。

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