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 人員と工費
 『砂防工場図』の工法とその規模に続けて

 「此人足内 石工夫千百五拾人九分弐厘
       工業夫三万百四拾七人
  合計三万千弐百九拾七人九分弐厘
 工費金高八千九百七拾円四拾八銭八厘」とある。

 この工事に携わった「工業夫」について、地元には「囚人」という伝承がある。実際その通りであった。富田康氏蔵『砂防用苗圃手入等書付』(以下『書付』)中の「明治16年9月中日誌略表」に「同(9月)6日晴 本日県庁・・・・及長飯監獄署・・・・」と記されている。
 工期
 『砂防工場図』表題の下に次のように記されている。
「明治15年1月創業 同 17年6月卒業」

 だが『内務省新潟土木出張所沿革ト其ノ事業』(1)(以下『沿革』)には
「工事ハ明治一五年四月着手、同一八年六月竣成」とある。

実際はちょうど1年も早く工事は終了していたのである。どういうことなのであろう。恐らく次のことでで誤記されてしまったものと思われる。
 実は佐野川砂防事業は、更級郡桑原村と同八幡村の二ヵ村にわたって施工されているのである。そして隣の八幡村工区では「明治一八年三月着手、同年六月竣成」(『沿革』149頁)したのであった。
つまり、佐野川砂防事業としては「明治一五年一月創業」そして「同(明治一八年)年六月竣成」ということだったのである。ところが『沿革』編集時には、桑原村工区の竣工時期は不確かであって、ここでミスが発生し、全体の工事が終了した時期を桑原村工区の項へ編入してしまったのではないだろうか。

 当時の作業の様子を、先掲「明治16年9月中日誌略表」に見ることが出来る。「九月一日晴 午前六時出場石堰堤ニ従事午後六時退(場)」とある。記録の範囲内で、9月1日から同15日までの期間は、6日を除いて同じ内容である。13日は「豪雨」にもかかわらず小雨だったのか、前日に「同」とある。恐らく2年半の工事期間、原則として雨天以外は、無休12時間労働ということだったのであろう。
 担当者
 『更級郡誌』(2)には「同(明治一二)年関長堯の発願にて内務省属中西某望月某桑原村に出張し砂防工事を起す」と記されているだけなので、彼らの所属や名前は不詳であったが、『砂防工場図』により、前者は「土木局工営掛」の「中西美重蔵」、後者は「長野県御用掛」の「望月重礼」であることが分かった。
 この他に事業主体側のスタッフは「土木局工営掛」が8名、「長野県御用掛」が3名いる。一方、地元側には「戸長」の他、「砂防惣代兼共有者惣代」が3名と「砂防惣代」が3名いる。
 苗木植え付けについて
 『砂防工場図』にはこのことについて全く記されていない。苗木植え付けについては、先掲『書付』でその大略を知ることが出来る。

 現場に苗畑を設け苗の育成を図り、その後植栽する方法は、明治15年頃始まっている。当地では明治18年に字・湯屋などに約「弐千弐百八拾七坪」の土地を借り上げ、苗畑を設置している。
 『書付』によると、
その翌明治19年(原文は「明治十七年」と読めるが、宛先が明治19年7月12日発足の「第三区土木監督署」になっている)10月に「苗圃肥料用油粕八拾六貫四百目」を施し育苗のうえ、明治20年4月に「人夫九拾壱人六分五厘・・・・壱人ニ付金拾八銭」で「苗木植付」を実施し、「壱貫ニ付金拾四銭三厘」の「油糟拾五貫三百八拾目」と「壱升ニ付金壱銭弐厘」の「糠五石」とを施肥している。
また同時に隣の八幡村工区でも「人夫五拾八人六分九厘・・・・壱人ニ付金拾八銭」で「苗木植付」を行っている。

 そしてさらに4月から2年半後の明治22年10月まで「苗圃借地料」を支払っていることから、引き続き同じ苗畑で苗木の育成を図っていることが分かる。この苗木は『沿革』149頁の「・・・・八幡村砂防工事」の項にある「及同(明治)二二年一〇月ニ於テ、苗木植込工ヲナシテ」に当たるのであろう。

 さて、植え付けた苗木の本数だが、
『松本砂防』(3)には「三万六千三百本」、
『明治大正日本砂防工事々績ニ徴スル工法論』(以下『工法論』)には「三十六万三千本」

とあって桁が違っている。
残念ながら『書付』には正確な数値は記録されていないが、「一 苗木植付・・・・人夫四月中計 二、七四五人」とあるので、これを算出基準にすると、後者のほうがより妥当な植え付け本数と言えそうである。

 また、苗木のニセアカシアと黒松の植え付けに用いた道具は「鶴鍬」「鋤簾」、事業主体側で担当したのは「内務技手河村義雄」と「内務省土木局出張員 桑原村工場受務官 福久源三郎」と記されている。
 『工法論』にも述べられているように、当時佐野川水源の「禿赭崩壊ノ原因」は、「強雨ニヨ」る「滑落」である、という踏査報告があったために、地元には山腹土砂の流出を抑制する植栽工が大掛かりに実施されたのである。もちろん、荒廃地の緑化に成功したのであった。


 おわりに
 地元作成の『砂防工場図』を当時の正確な実施記録と断定したのは、表題に「竣功」とあることの他に、同図下側の中央やや左の位置に「明治一七年六月」と記し、地元担当者が署名、捺印しているからである。

 今回、前回の報告に増補を加えることが出来たのは、滝沢公男氏から一等史料発見の吉報が届いた賜であり、長野営林局造林課の担当各位と武居有恒氏から、ご教示を頂いたからである。厚く御礼申し上げます。

(1)昭和五年、内務省新潟土木出張所
(2)大正三年、長野県更級郡役所
(3)昭和五〇年、松本砂防工事事務所
(4)昭和七年、赤木正雄
(新右衛門屋敷・象山桑原記念館)
   (一九九一・一・二四受理)
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