(平成15年4月撮影) 岡田川は千曲川の左支川であり、水源は長野市篠ノ井区の西方にある茶臼山〜中尾山山塊である。この山塊は善光寺平と犀川にはさまれ、南北方向にのびており、裾花凝灰岩層からなっている。この凝灰岩層は火山性砕屑堆積物を主とするが、一部に溶岩や砕屑堆積物を挟んでいる。火山性堆積物は流紋岩〜デイサイト質の擬灰岩を主とし、同質の火山礫擬灰岩・凝灰角礫岩を一部挟む。凝灰岩は軽石擬灰岩やガラス質凝灰岩からなり、溶岩はガラス質凝灰岩からなり、溶岩はガラス質流紋岩の黒曜岩・真珠岩・松脂岩などからなる。 凝灰岩の一部は温泉変質を受けて軟質化しており、モンモリロナイトを多く含んでいる。 これに対し、溶岩部分や火山性礫岩部分は硬質であるため、全体的に場所による硬軟の変化が著しい。 軟質部は侵食抵抗力が弱く表層崩壊をおこしやすいため、はげ山になりやすく、白い岩肌を露出した急傾斜の悪地形となっている。 このため降雨の際は崩壊をおこし、崩積土から砂粒や粘土が生産されて、下流へ押し出す。岡田川はV字状の谷が多いが、善光寺平に出る付近から下流では土砂が堆積し、扇状 地をつくると共に、一部では典型的な天上川が形成されてきた。 このような自然条件の上に岡田川の水源山塊は弘化4年(1847年)に発生した善光寺地震の影響を強く受けている。善光寺地震は、善光寺平とその西方にある山塊の境界部にある善光寺平西縁断層群の一つが活動したために、ひき起された地震であり(マグニチュード7.4)、地震断層が茶臼山東方の段の原から、小松原を経て小市にのびる南北方向に現れた。西方の山塊が隆起し、盆地側は沈降しており、小松原に見られた地盤のくいちがいは約2mに達している。この時、西方山塊でも多くの崩壊が発生し、山地の荒廃を促進した。 (平成15年4月撮影) 明治政府の内務省による工事は、明治14年(1881年)7月に開始され、明治17年までつづき、ここで一旦中止されている。そして、明治21年(1888年)4月に再開され、26年11月まで続けられた。 石積堰堤が数十ヶ所渓問に設けられ、山腹には柵止め、および積苗工を施し、苗木を植えつけたとされている。しかし、設計図書類が残されていないため、施工ヶ所などの詳細は不明である。 この渓流では、さらに大正時代に入り再び工事が行われている。 内務省新潟出張所は長野市篠ノ井岡田(当時の更級郡共和村)に共和砂防工場を設置し、石積堰堤10ヶ所(内2ヶ所は土堰堤付)・山腹石積堰堤5ヶ所・積苗工4ヶ所(内2ヶ所は苗木植付も施工)・張芝工1ヶ所・芝萓筋植工2ヶ所の計5種22ヶ所の工事を行った。 施行地は栃久保沢水源であると推定されるが詳しいことはわからない。施工の設計書が残されていないため、工種の内容は不明であるが、牛伏川砂防工事と類似しているとみられる。芝萓筋植工は筋芝工の芝の一部を萓で代用した山腹工事とみられる。 工事は大正9年(1920)5月末日に終了し、工場は閉鎖された。