第2章 〜明治の遺産 岡田川砂防堰堤〜
明治政府(内務省)による砂防堰堤工事
 明治政府の内務省による工事は、明治14年(1881年)7月に開始され、明治17年までつづき、ここで一旦中止されています。そして、明治21年(1888年)4月に再開され、26年11月まで続けられました。
 石積堰堤が数十ヶ所渓問に設けられ、山腹には棚止め、および積苗工を施し、苗木を植えつけたとされている。しかし、設計図書類が残されていないため、施工箇所などの詳細は不明です。
 この渓流では、さらに大正時代に入り再び工事が行われました。内務省新潟出張所は長野市篠ノ井岡田(当時の更科郡共和村)に共和砂防工場を設置し、石積堰堤10ヶ所(内 2ヶ所は土堰堤付)・山腹石積堰堤5ヶ所・積苗工4ヶ所(内2ヶ所は苗木植付も施工)・ 張芝工1ヶ所・芝萓筋植工2ヶ所の計5種22ヶ所の工事を行っています。(表−1)
 施工地は栃久保沢水源であると推定されるが詳しいことはわかりません。施工の設計書が残されていないため、工種の内容は不明ですが、牛伏川砂防工事と類似しているとみられます。芝萓筋植工は筋芝工の芝の一部を萓で代用した山腹工事とみられます。
 工事は大正9年(1920)5月末に終了し、工場は閉鎖されました。

(平成15年4月撮影)
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