※当論文の著作権は関章氏及び産業考古学会に属しますため、著作権者本人のホームページもしくは、著作権者本人が掲載を許可したホームページを除く他は、当論文中のデータ及び写真・図説等の転載を一切禁止致します。
 はじめに
 長野県更埴市桑原(旧更級郡桑原村)を流れる一級河川・佐野川の支流には、明治時代に施工したと伝えられる砂防石堰堤が十数基現存している。
当時、全国的に建設されたものが、現存する例はまれになっているので、この石堰堤が明治時代に竣工したことが確実になれば、それが現在も砂防の役目を果たしていることから、貴重な土木技術遺産ということができる。

 これまでこの種の調査報告は出ていないので、今回佐野川の支流・荏沢に設置されている石堰堤の保存のための調査を実施した。
 石堰堤の設置時期について
 最も早くこの石堰堤についての記事を掲載するのは、
大正3年刊『更級郡誌』(1)

「同年(明治十二年)関長堯の発願にて内務省属中西某望月某桑原村に出張し砂防工事を起すこれ本郡砂防工事の嚆矢とす」

とあり、1879年に当地域で砂防工事が始まったと伝えている。昭和54年、建設省北陸地方建設局松本砂防工事事務所は、荏沢など佐野川の支流に直轄砂防事業を始めて100年の歴史を経たというので、
『松本砂防のあゆみ―信濃川上流直轄砂防百年史―』(以下『百年史』)を発行している。

 工事の実際は、明治時代当地域の砂防工事を担当した内務省新潟土木出張所が昭和5年に発行した
『内務省新潟土木出張所沿革ト其ノ事業』(以下『沿革』)でそのあらましを知ることが出来る。しかしそこでは明治12年に事業が開始されたことについては触れていない。
 そこで明治12年に当地域で砂防事業が開始されたことを裏付ける史料を探すことにした。『更級郡誌』が掲載する前記二名が何かこのことについて記録している可能性もあるので、まず彼らの住所を調べるため、国立国会図書館へ『明治官員録』明治12年版での検索を依頼した。
しかし「技手は収録されなかったのか」という回答を頂いた。
 次に明治12年の地元紙『長野新聞』は砂防事業の開始を取り上げていることも考えられるので、長野県立図書館蔵のマイクロフィルムで探してみたが記事にはなっていなかった(もっとも6月22日〜11月30日までは欠号)。

 次に発願者・関長堯(筆者の曽祖父)の資料中に探してみたがやはり発見出来ない。
更に『内務省年報・報告書』(2)
『長野県会沿革史』(3)
にも記録はない。

 以上のように当地域砂防事業の開始が明治12年と断定する史料を見つけ出すことは出来なかったが、この時であった可能性、つまり状況証拠はある。当時、関は長野県属として現在の長野市内から通勤していたが、同13年1月に郡長になり現在の中野市に着任する。そして再び県に顔を出すのは同15年9月になる。この年は既に工事が始まっているので、明治12年12月以前のことを考えることに無理はない。

 次に『沿革』

「工事ハ明治一五年四月着手、同一八年六月竣成・・・・・・・後明治三十五年十一月再ヒ起工、同三十七年六月末全部竣功セリ」

とした一等史料を探さなければならない。それは旧桑原村(あるいは長野県)からの請願書、内務省の施行通達書、施行位置図、人足工賃など数値の分かるもの、そして設計図である。これらの行方を知るため次の関係諸機関へ目録での検索を依頼した。建設省、東京国立博物館、国立国会図書館、京都大学、全国治水砂防協会、自治省、国立公文書館、早稲田大学、総務庁。しかし回答は異口同音「見当たらない」であった。だが松本砂防工事事務所からは糸口になりそうな『百年史』を寄贈して頂き、同書によって当時の砂防工事にかかわる史料が存在することを知った。「百年史」は砂防工事の着手竣工の時期は『沿革』と同じだが、独自に明治15〜18年にかけての「佐野川水源砂防工事施工位置図」を掲載し、石堰堤の設置場所を示しているうえ

「石堰堤は五十個所に、山腹工事すなわち柵止、積苗、苗木植付が四十六個所、面積にして九万一千三百八十坪・・・・・・」

と実施数も記している。そしてその典拠は、
長野県行政資料・長野県内務部第弐課
『明治三十三年度砂防工事関係書類綴込』
「明治三拾四年三月一八日付砂防工事御施工ニ付追願」「砂防工事調書佐野川ノ部」であるとしている。

ところが同史料を閲覧したところ、明治15〜18年にかけての工事内容を知ることの出来る記事は無かった。それもそのはずで、同史料は明治34年に関係町村長が内務大臣へあてた再施工の願書であったのだ。つまり『百年史』246頁掲載の前記図は明治15〜18年の砂防工事の位置を示しているのではなく、地元が再施工を希望する場所を示しているものであった。したがって石堰堤の数や面積も再施工時の希望数であったのである。

 また同じ松本砂防工事事務所が昭和50年に作成した『松本砂防』によれば、明治15年4月から始まった工事の内容は

「石堰堤二十個所、苗木植林三万六千三百本、柵止工、積苗工」
とあり、昭和7年に赤木正雄が著した『明治大正日本砂防工事々績ニ徴スル工法論』には
「石堰堤百二十ヵ所、柵止不明、積苗不明、苗木植付三十六万三千本」

とあって三者三様である。ということは、施工内容を記す一等史料は三者共それぞれの編著時には無かったのではないだろうか。

 最後は地元の資料中に見つけなければならない。昭和42年刊『桑原村誌』(4)もこの砂防事業について触れているので、同書編者の孫に当たる富田康氏に今回の調査内容を話しておいたところ

『砂防用苗圃手入等書付』

という資料を借覧出来た。これは富田氏の先祖・富田七郎兵衛がその番人をしていた時の記録である。その中の「明治十八年御用物入酉四月改富田氏」と書かれた袋物から、施工内容を明記する次の資料が発見出来た。

「一、石堰堤百三拾六ヶ所、延長三百九拾壱間二尺、立坪七百拾四坪三合、平坪二百五拾八坪一合七勺  
一、柴工堰堤拾ヵ所、延長拾八間壱尺
一、柵止連柴工拾壱ヵ所、延長壱万八千四百弐拾六間半
一、積芝工九ヵ所、延長八千四百六拾弐間
一、藁網工平坪千四拾坪」

ただしこの数値が、目標数か実施数か分からないのが残念である。なお借覧した史料中に、明治35年から始まった再施工にかかわるものは一切含まれていないので、これが明治15年〜18年の砂防工事の記録であることは確実である。

 この資料を筆写し元に戻そうと袋物を開いた時、その袋地に文字のあるのに気が付いた。富田氏の許可を得て解体すると、なんとそれは明治16年の作業日誌の一部であった。こうしてついに一等史料を発見したのである。間違いなく、少なくとも明治16年の9月1〜15日の期間は、石堰堤工事の進められていることが判明したのである。

 さて次は、荏沢に現存する石堰堤がこの作業日誌に示されたものか、あるいは再施工時のものかが問題になる。再施工は最初の時から20年の時間を経ているので、両者間には技術差が表れていていい。まずこの石堰堤が明治18年に完成したものとするには、はたしてそれが現存するものであろうか疑問になる。類例が存在していれば間違いない。おまけに類例があったとするとその工法が似かよったもののはずで、比較による検証も出来る。そのためには、同一年代のしかも同じ新潟出張所管轄の工事という条件が付けられる。つまり荏沢への施工年代の前後に設置された石堰堤で、後年に再施工がなく単なる修繕の段階にとどまったものを見つけ出さなければならない。『百年史』『長野県の砂防』(5)で明治から昭和にかけて実施された直轄および県単工事の一覧表を作成したところ、条件にかなったものがあった。長野市の淺川の支流と明科町(東筑摩郡)の峰ケ沢の二ヵ所である。だがその六本の沢すべて歩いて見たが一基も現存していなかった。そこで一概に言い切れるものではないが、明治10年代に建設したものが現存するということは不可能と見るしかない。すると荏沢の石堰堤は、明治37年に再施工されたものが「大正二、同三年」(6)に修繕工事があって現在に至っていることになる。もちろんそれ以後の工事は『百年史』『長野県の砂防』『砂防設備現況調書』(7)で見る限り昭和24年の「床止工」(8)までは実施していない。しかもこれは保存を望む石堰堤より下流である。


 また工法を概観したところ、明治15年当時の工事では、テキストに内務省土木局蔵版『土木工要録』(明治14年版)を用いていることはほぼ間違いないが、同書の説明より一歩進んだ例えば、石堰堤の流出事故の原因を究明し、より堅固なものを造っていることから(「石堰堤の状況」の項参照)、明治時代後半の仕業と見るのが妥当である。


Copyright (C) Matsumoto Sabo Office. All Rights Reserved