第3章 〜明治の遺産 蜂ヶ沢砂防堰堤〜
はじめに
 蜂ヶ沢砂防堰堤は長野県明科町(北安曇郡七貴村、現明科町荻原)に位置し、明治16年に国の直轄事業として着手したのが最初です。この沢は尾根下部に大規模な崩壊地が発達、多量の土砂を流送し下流域に天井川を形成し荻原地区と中村地区を分断しており、最大高20m、最大幅60m、総量60万m3程度と推定され、県下でも類を見ない天井川であります。現在は長野県に引き継がれ、犀川砂防事務所にて管理され、天井川の一部を後生に残すべく地方特定河川等整備事業で公園景観整備がされています。(蜂ヶ沢砂防学習公園)
蜂ヶ沢の概要
 蜂ヶ沢上流は大穴山礫岩層と呼ばれる膠結度の不良な軟らかい礫岩層であるので崩落が激しく、高さ数十メートルから百メートルにも達する土柱(崩落崖)の発展が著しく、下流に扇状地を作って天井沢となっています。
 昔から荒れる沢で田畑を流出埋没させてきましたが、天保三年(一八三二年)に五ヶ村用水路(押野村・塩川原村・萩原村・中村・小泉村を流れる灌漑水路)が完成して蜂ヶ沢の下を底樋で通水するようになってからは、蜂ヶ沢が氾濫する度に用水路が埋まって下流へ水が行かなくなる為、蜂ヶ沢を特別区間と定めて荻原・中村・小泉の三村で水路の維持管理と天井沢の災害防止に努め、地元の荻原耕地では昭和三十年代迄、蜂ヶ沢担当役員を常時二名置いて、天井沢の災害の防止や災害時の対応に備えました。
(犀川砂防事務所より)

蜂ヶ沢砂防学習公園

現在の蜂ヶ沢の砂防施設

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