大町市平区野口久保の高瀬川のほとりに小さなほこらがあります。
 むかし、ある年の夏のこと、高瀬川に大水が出て、久保は大きな被害をうけようとしました。この時、久保の大蔵という人が飼っていた牛を村のちょうど良い所へうめて、神さまに水害をよけていただくように祈りました。すると神さまの力があらわれて、すぐに川の流れが変わり、災害をまぬがれることができました。そこで大蔵は、名主にお願いしてこの牛の霊を神さまとしてまつりました。これが、ばんごんさまです。
 それから後、ばんごんさまが水害よけの神さまとされ、また水害よけに牛をうめることもありました。
 ばんごんさまのお宮は、むかしはだいぶ大きかったそうですが、明治のはじめに神明さまといっしょにまつられるようになり、野口神社の西に移されました。現在、高瀬川のほとりには、ほんのしるしばかりの小さいほこらだけが残っています。

 鍋割の集落の北東、押出原に蛇の宮(押出権現)というお宮がありました。そこに大蛇の骨をまつってあると言い伝えられてきました。
 むかしむかしのある年、いく日か雨がふりつづき、土地がすっかりいたんでいました。
 そこへ、荒倉山から唐沢山にかけての山くずれがあり、夫婦堤が切れ、中沢がはんらんしました。
 中・下波田方面の台地は、大きく東の方へ向かって傾いていますが、また同時に北にむかってもしだいに低く傾いています。だから、この台地を横切って、中波田の集落を通り、梓川の段丘に向かって土石流が押し出してきたのです。それが、さらにいまの波田駅の東方の段丘のあたりを乗りこえて、鍋割の東部を通り、押出の集落の南(押出原)まで達しました。
 そのすさまじさと言ったら、まったく想像以上でした。人家をのみ、畑をくずして、おそろしい勢いで押し出したのです。村人たちは、そのあまりのおそろしさに驚き、おののきました。
 土石流の跡を見ると、なにか白い骨のようなものがありました。「これは蛇の骨に違いない」というので、それを神さまが宿るものとし、「蛇の宮」にまつりました。
 むかしの人は災害を起こす現象を「蛇ぬけ」とよび、大蛇がぬけていったんだと考えました。そして、そのような災害が二度と起こらないように、神さまをまつって祈ったのです。