●昭和44年8月の高瀬川災害
大町市葛温泉
上条雅弘さん

(旅館のご主人)


「おそいかかる土石流 流されるわが家をただ見送るだけ」

 雨は7月27日から毎日ふり続き、災害が起きた8月11日は一日で600mmというすごい雨でした。川の水量がふえてきたのは午前10時ころ。川は土砂がまじって赤黒くにごり、そこを7〜8mもある大きな岩が上流へ向かってゴロンゴロンところがっていくように見えました。水の力のすごさを感じましたね。
 昼の12時30分ころ、いよいよ家と川の高さが同じになってしまったため、お客さんや家族、旅館で働いている人たちを下流へひなんさせ、わたしは家より少し高い所にある駐車場の車の中にいました。そして午後2時30分ころ、上流から押しよせてきた土石流によって、旅館はわたしが見ている前を流されていきました。濁沢の山がくずれて、その土砂が川をせきとめて自然のダムをつくり、それが決壊して一気に土石流となっておそってきたんですね。あれがお客さんの多い夜だったらと思うと、今もぞっとします。
●昭和58年9月28日の奈川村災害
松本市奈川(旧・南安曇郡奈川村)
忠地愛子さん

(その当時の保育園の園長さん)

「いつもとはまるでちがう雨 こどもたちの避難を決める」

 今でも目にうかびます。地面にずっと雨の柱が立っていたのを。昼の1時30分ころになっても雨ふりは弱くならず、なんだか心配でおちつきませんでした。橋がわたれなくなったらどうしようかって・・・。それで、とにかくみんなで逃げようと決め、昼寝していたこどもたちを起こして、2時10分ころにはこどもたち全員の避難をすませました。そして、わたしたち職員も、その後10分ほどで避難しました。わたしは役場にいたんですが、保育園を見に行った保母さんから電話があって「土手が決壊してメチャクチャだ」って。次の日、なんとか保育園に行ってみると、ゆうぎ室にあったピアノが庭のすみに三角形のかどを見せてうまっていました。建物の中はタテになったりヨコになったりした木や、2〜3mはある石でいっぱい。そのすがたを見て、わたしは悲しくなって泣きました。でも、その後でこどもといっしょに無事に避難できたのだから良かったと思いなおしました。