〔仁科氏のおもな年表〕
●治承3年(1179)
 仁科盛家、八坂村藤尾の覚音寺に千手観音像をおさめる。
●治承4年(1180)
 木曽義仲、信濃に兵をあげ、仁科盛家はこれに従って北陸道に転戦する。このころ、館之内に館をかまえる。
●承久3年(1221)
 承久の変おこる。仁科盛遠は京軍につき、北条朝時の大軍をむかえ討つが敗れる。
●安貞2年(1228)
 このころ大町に館を移す。
●嘉暦4年(1333)
 鎌倉幕府ほろびる。仁科氏は後醍醐天皇方につく。
●正平8年(1353)
 大町の館が小笠原長基に攻められおちる。
●文明2年(1470)
このころ盛蓮寺の観音堂を建てる。
●文明12年(1480)
 仁科盛直、府中(松本)の小笠原長朝と穂高川で戦い、敗れる。
●天文16年(1547)
 仁科氏、武田晴信につく。
●弘治2年(1556)
 若一王子神社の本殿がつくられる。
●永禄4年(1561)
 第4回川中島合戦。仁科盛政、武田方として出陣。
●永禄10年(1567)
 武田信玄、仁科盛政および仁科氏親類一同はじめ信州各地の豪族と西上州の将兵から起請文をとり、忠誠をちかわせる。しかし、のちに仁科氏は内通の理由で切腹させられ、仁科氏の正系は断絶する。その後、武田信玄の五男晴清が仁科家を継ぎ、盛信を名のる。
●天正10年(1582)
 織田信忠、伊那軍高遠城を攻めて、城主の仁科盛信がうち死にする。
 大町を中心にして500年あまりにわたって勢力をふるった豪族、仁科氏。祖先は、大和朝廷の言いつけによって越の国(現在の新潟県)の開拓にあたった阿部氏といわれ、日本海から姫川をさかのぼり、木崎湖周辺から大町付近に住みついたとされている。

 仁科氏は大町を京都にならって碁盤の目のようなまちづくりをしたり、堰をつくって水田の開発を行ったり、街道をおさえるために山城をきずいたりしたんだ。また、信仰心があつく、ゆかりの寺や仏像は文化財として今も数多く残っているよ。