手取川の「霞堤」が土木学会の平成24年度「選奨土木遺産」に認定されました

手取川の「霞堤」

 石川県下最大の河川である手取川は、その豊かな水量から水力発電、農業用水、工業用水に利用されるなど、地域の暮らしに深く結びついています。

 一方、日本を代表する急流河川<白山:2,702mから河口までの勾配は約1/30>であり、洪水により人命や資産が失われた歴史を有します。(過去の大水害:昭和9年7月洪水。死者行方不明者109名、家屋被害750戸等)

 こうしたなか先人達は、洪水から生命・財産を守るため、平面的に不連続な堤防「霞堤」を築きました。これは万一氾濫した場合に次の堤防でその流れを食い止め、氾濫流を本川に戻す役割を果たすものです。


受賞の理由

手取川の「霞堤」は、扇状地上に築かれた前近代の治水技術を伝える貴重な土木遺産であり、現在もその機能を有するとともに、見事な不連続堤を遺していることから、今回、土木学会の2012年度選奨土木遺産に選定されました。


手取川霞堤斜め写真手取川(7.0km) 川北町辰口橋付近

手取川位置図


選奨土木遺産制度

・近代土木施設(幕末〜昭和20年代)を対象として社会へのアピール、まちづくりへの活用などを促がすことを目的に、平成12年度から設けられているもの。
・金沢河川国道事務所関係では、平成16年度に甚之助砂防堰堤群が認定されています。


銘板
【銘板】

認定証
【認定証】

手取川「霞堤」について

    

1.はじめに

 手取川は白山(標高2,702m)に源を発し、尾添川・大日川・直海谷川など数十の支川を合流しながら北流し、白山市の鶴来で西方に向きを変え、加賀平野を流下した後、日本海に注ぎます。

 本川の流路延長72km、流域面積809km2で、石川県内最大の河川です。また、流域面積の9割を山地が占め、源流部から河口までの平均勾配は約1/30と、日本有数の急流河川に数えられます。

手取川縦断

手取川扇状地
手取川によって形成された扇状地
(扇頂部より河口を望む)


 本川上流は牛首川とも呼ばれ、右支川尾添川の流域と合わせて白山火山帯に属し、この一帯の地質はもろく崩壊を起こしやすいことから、多くの土砂が発生します。中でも甚之助谷は、標高1,400〜2,000mに位置する全国的にも稀な高山地域の地すべり地帯となっており、これら上流域で生産される土砂が洪水によって流送され、下流では鶴来を扇頂とする典型的な扇状地が形成されています。

手取川扇状地
【手取川扇状地】


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2.扇状地と地域の暮らし

 手取川に係わる古地図を見ると、扇状地内にはいくつもの流路があったことが伺えます。つまり現在のように本流が定まっていたものでなく、古くは洪水のたびに鶴来を扇頂とした幾筋もの流れが存在しました。


 なお、中世から近世にかけ農耕を軸とする社会構造の確率が進むにつれ、扇状地内でも稲作が急速に発展していきます。その頃あったいくつもの流れは、平時においては水田へ水を引く用水として有利であり、また洪水によって運ばれた肥沃な土壌がその基盤として適していたものと思われます。これに伴い、徐々に扇状地内における人々の暮らしも拠点化し、生活空間が形作られていきます。本格的な集落の始まりです。そして扇状地内に「ある問題」が顕在化していきます。


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3.“島”集落と村囲堤

 稲作の発展、集落の形成が進むにつれ、扇状地内において発生する洪水(水害)が大きな問題となっていきます。稲作などの生産性が高まり、人々の暮らしが豊かになるほど、ひとたび洪水によって被る被害・影響というものも大きくなっていきます。このため、その対策が行われるようになりますが、当時の治水技術や資力に見合ったものにとどまるのは致し方なく、それを上回る状況(洪水)が繰り返されるたび、復旧復興も何度となく繰り返されたと考えられます。

 その中にあっても、扇状地内における地形を生かした特長的な取組みが生まれました。現在でもその名残を確認することができる、“島”集落と村囲堤です。


 “島”集落とは手取川扇状地内に見られる集落の形態で、その名のとおり広がる水田の中に島が一列状に浮かび上がる集落群を呼称します。これは、扇状地内の微地形を活用したもので、氾濫に被害を受けないよう、僅かながらも存在する高台に集まり住まいを築いたことに由来します。現在でも、川沿いには「田子島」「舟場島」「出会島」「与九郎島」などの“島”を冠した地名が残っています。


 村囲堤とは、氾濫による被害をさらに回避するため、集落周辺に盛土を築き、強い流れにも耐えられるよう手取川から、あるいは開墾によって出てきた石によって補強された一種の堤防です。堤防とはいえ当時の図をみると、河川堤防のように洪水を溢れさせないようにするというより、「集落に向かわないよう受け流す」よう配置されているのが特徴です。

“島”集落と村囲堤
【“島”集落と村囲堤】(→拡大図

 この“島”集落と村囲堤の形成過程(背景)を勘案すると、この時代の頃までの洪水対策は、まだまだ各々の集落による自衛的な取り組みの段階であったと勘案されます。

 しかし、藩政時代に入り地方でも統治体制が確率されるにつれ、用水などの利水や治水の取り組みも組織的な進展が見られるようになっていきます。


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4.用水の整備と村囲堤の進化

 集落のみを守る村囲堤は、その後続いた開墾に伴って、次第に成長(高くなったり、上下に伸びていったり)していったと伝えられています。

 また、それまで扇状地内の単なる流路であったものも徐々に用水化され、江戸末期には枝権兵衛らによる尽力によって、富樫・郷・中村・山島・大慶寺・中島・砂川(現、新砂川)の代表的な七つの用水が整いました。これらは明治36年に合口化され、現在の七ヶ用水となっています。

七ヶ用水取水口の移り変わり
【七ヶ用水取水口の移り変わり】

 このように用水の整備、合口化によってそれまで鶴来を扇頂とした幾筋もの流れは次第に手取川本流とそれ以外に区分されていきます。

 手取川本流が定まってくると、やがて人々の関心=洪水対策の視点は、手取川そのものに移っていったと考えられ、村囲堤は次第に本川に沿って、伸びていき、直接本流を制御するようになっていきます。


 つまり、村囲堤は現在の「霞堤」へと進化していったのです。

霞堤と“島”集落の様子
【霞堤と“島”集落の様子】

 村囲堤という言葉は、手取川治水事業に関する書物の中では「堤塘」とも表されています。堤塘という言葉は今では聞き慣れないものですが、古い登記簿にはいまなお「堤塘敷」などの表示が残っているものもあります。

 堤塘とは「湖沼などの水が溢れないように、土を高く築いたもの」とされており、やはり現在でいうところの堤防を意味します。

村囲堤(堤塘)/保元袋堤
【村囲堤(堤塘)/保元袋堤】

 手取川治水事業に関する書物で堤塘と用いられているのは、村囲堤が地域的な呼び名であるのに対し、堤塘は「河港道路修築規則(※)」に記載されている当時の公称的単語であったからと思われます。(※明治6年に大蔵省連番外として通達されたもので全国の河川を一等・二等・三等と区分し、管理主体や国費負担割合等を定めた。旧河川法(明治29年)の前身にあたる。)


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5.露堤の保全

 不連続な形の堤防は「霞堤」と呼ばれています。その治水上の目的は二つに大別され、一つは開口部で逆流させその空間で貯留し、下流への流下低減を図るというもの、もう一つは二番堤、三番堤・・・と言われるように、本堤が破堤してもその氾濫水を次の堤防で待ち構え、被害拡大を防止し、またその流れを速やかに本川に戻すというものです。

 手取川における霞堤の役割はその過程(背景)から主に後者であると思われます。なお、手取川の霞堤の高さは、開口部の堤防高のままのレベルバックでなく、扇状地地形に沿った縦断勾配を有していることからも、そのことが裏づけされます。


 今でも、一度洪水となれば強く激しい流れを有し、土砂移動も盛んな手取川において、この霞堤の存在は大変重要なものと位置付けされます。

 しかし残念ながら、第二次大戦後の復興(農業振興に伴う土地改良事業等)や高度成長期の開発によって、一部の霞堤は締め切られ連続堤化した箇所もあります。

 このため、平成18年に策定した手取川水系河川整備計画では、霞堤の機能にあらためて着目するとともに、将来にわたってその機能が適正に発揮されるよう、「開口部周辺の土地利用も含めて関係機関と連携・調整」していくことを明記しています。


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6.石に記された歴史

 昭和9年7月洪水により手取川では各所で破堤し、死者行方不明者109名・流出浸水家屋約750戸など、甚大な被害が発生しました。この洪水を契機として国直轄(当時の内務省)による改修が進められ、途中戦中戦後の混乱期における工事縮小があったものの、昭和30年代には、ほぼ現在の堤防の姿に至りました。


昭和9年7月洪水による破堤・氾濫状況
【昭和9年7月洪水による破堤・氾濫状況】

 なお、手取川では古くからその強く激しい流れに対抗するため、堤防には川から採取した石を組んだ法面保護が施されました。いわゆる空石張護岸です。



右岸7.8km地点にある銘板
記載内容:これより上流1.0km 昭和8年 予算 と書いてあります
(一部破損の為全文判読不能)

 左写真はこの手取川の堤防の歴史の一つを示すもので、当時の工事起点(と思われる)を記した石が、今なお現地に残っています。表面には昭和8年の施工であることが記されており(従ってこの箇所の堤防は県時代の施工と思われます)、昭和9年7月洪水に耐え、現在でも堤防としての役割を果たしていることを我々に語っています。
 この石の存在は歴代の出張所長に引き継がれ、手取川の治水の大切さと、初心に立ち返り現地に取り組んでいくことの教戒標として歴史的価値があることから金沢河川国道事務所では、保護を行っています。









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7.「霞堤」利用状況


霞堤利用状況
霞堤(2番堤)には桜づつみが整備され沿川住民の憩いの場となっています


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